京都学派

二月六日(火)晴
吉川安著『化学者たちの京都学派―喜多源逸と日本の化学』を読み終えた。とても面白く読んだ。京都学派というとふつう西田幾多郎田辺元などの京大哲学あるいは人文系の教授連の勢力範囲をさすことが多いのだが、本書では喜多源逸にはじまる京大工学部系の化学者一派をあつかっている。喜多をはじめとして、その弟子筋の兒玉信次郎、櫻田一郎、新宮春男、福井謙一などの足跡をたどり、孫弟子にあたる野依良治までをあつかう。二人のノーベル化学賞受賞者を出した優秀な学派に関する科学史的なアプローチであり、通俗的な読み物ではないのだが、読み物として面白い。
喜多源逸と言っても今では知っている人も少ないだろうが、明治16年(1883)生まれの化学者である。三高から東京帝大工科の応用化学に進み、のち京都帝大工科の教授になる。私はたまたま勤務する化学系製造会社の百年史を編纂していることもあって、喜多をはじめ不思議とこの一派の人たちの名は知っていた。彼らの研究内容もわりと自分の興味に近い。そもそも喜多が京大に来るのは、私がかつて自分の個人誌で取り上げたテーマでもある京大澤柳事件がきっかけであるし、その少し前まで京大理学部で化学科の助教授を務めていたのが、書いている社史の会社の創業者なのである。創業者は喜多より三つ年上である。ちなみに京大工科で喜多の同僚であった松本均は、創業者が欧州に遊学に出た際の渡航船で同船している。創業者と喜多に知己があったかどうかは定かではないが、共通の知人はたくさんいた。また、喜多の東大での同窓に後の帝人で人絹を作った久村清太がいるが、久村が学生時代に世話になった会社の社長の息子は、やはり京大理学部化学を出て私の会社の創業に加わっている。
喜多が戦時中に手掛けていた人造石油、すなわち石炭の液体化の研究は、石炭からコークスを製造する際に生じるコールタールと兄弟のようなものであり、今自分が書いているのは19世紀にはじまるコールタール化学についてなのである。人造石油を喜多は陸軍と組んで研究開発していたが、一方の海軍と組んだのは京大理学部化学科の小松茂の一派であり、小松は創業者の後輩であり、小松の子息は私の会社の研究所長をしていた。この辺は陸海軍のライバル関係と、京大内の理・工のライバル関係が重なっているようで興味深い。
化学の京都学派の学風は基礎の重視だったと吉川は言う。工学系、特に応用化学ともなれば文字通り産業化・工業化に結びつく技術教育主体と思われがちだが、喜多はとにかく基礎を重視し、それが一派に受け継がれた。基礎とは言うまでもなく化学の基礎研究である。また、東大の出ながら奈良出身の関西人である喜多は終生東大にライバル心を持ち続けたようで、それもまた一派の特徴、というよりそもそも京都帝大の特徴であろう。そして喜多は研究者としてよりも組織者、研究プロジェクトのオーガナイザー、そして後進を育てる教育者として卓越した人であったという。喜多の薫陶を受けた後継者がその学風を次世代へと継承もしてきたのである。その結果この學派から2名のノーベル賞受賞者、3人の文化勲章、6人の日本学士院会員、13人の日本化学会会長を輩出している。
応用(化学)をやるなら基礎をやれという喜多の教えに従って大成した弟子には、高分子化学の先駆者でビニロンの発見につなげた櫻田一郎や、量子化学のフロンティア軌道の理論でノーベル化学賞をとった福井謙一がいる。福井は化学より数学が得意だったが、喜多に数学が好きなら化学をやれと言われて化学の道に入ったという。著者の吉川は「京大工学部に喜多がつくり兒玉が育てた独特の学問的雰囲気の中で、福井の非凡な数理的才能が見事に開花」したのだという。その福井が、弟子には理論をやるなら実験をやれと言ったというのだから面白い。福井によれば「逆方向の学び」が創造力の源泉になるという。一見逆説的な、常識や定説と反対のことの中に新たな発見や活路が見いだせることがあるのは確かだが、京都大学についてよく言われる「自由な学風」とはこうした常識や枠にとらわれない発想から生まれるものなのだろう。ただ、同時にこの学派の教授たちが保持したきわめて権威主義的な言動も言及されていて、個人的な感情の入った激しい論争の経過や海外留学時の様子も含め、生身の人間たちのドラマとして読めるのも本書の魅力であろう。と同時に、東大工科やその前身である工部大学校のとる応用重視の学風は明治新政府の急いで欧米に追いつこうとする方針に忠実に沿ったものだろうし、京大工学部の研究テーマも代替燃料、合成繊維、合成ゴムなど時代の制約や社会の需要と無関係ではあり得なかった点で、化学史がそのまま近代・現代史の一部であることも痛感させられた。それこそが、私が自分の会社の社史で少しでも明らかにして行きたい課題でもあるのである。