読後

 ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』を読み終えた。先日観た映画『ベロニカとの記憶』の原作である。ブンガクから遠ざかって久しいが、バーンズを読んだのは90年代に『フロベールの鸚鵡』と『101/2章で書かれた世界の歴史』を読んだきりで、すごい作家だとは思ったが、その後翻訳が出ても手に取ることはなかった。

 映画を観てから原作を読む場合の方が、その逆より幸福なケースが圧倒的に多いように思う。今回もその例のひとつで、重層するテーマの掘り下げや思索、その表現の奥深さに関しては、とても映画が追いつけるレベルのものではない。それに、小説によって思い描かれる登場人物たちの風貌と映画のそれのイメージの違いに、後から映画を観ていたら相当に苛立ちを覚えたはずだ。ところが、先に映画を観て読むと、記憶の不確かさという小説のテーマのひとつそのもののように、映画に出ていた俳優たちの風貌はどんどん自分なりにアレンジしたものに変わっていって、もはや俳優たち本来の顔とはまったく違っているようにも感じられる。生身の俳優たちの風貌の記憶は、単に小説によって喚起される人物像のヒントか触媒のようなものになっていて、さほど邪魔にならないのである。しかも、映画にはシナリオや設定の改変はあるのだが、小説の枠組みと進行を限られた時間(要するに、この小説一冊を読み終わる時間より短い映画上映時間)で分かりやすいものにするための映画的な創意工夫としてそれも好ましいものに思えている。後から小説を読んだという幸運があるにせよ、読んだ後になっても、なかなかよく出来た映画だったと思えるのである。

 語り手であるトニーと、その学生時代の友人で哲学的な自死を選んだエイドリアン、そしてトニーの恋人でありながら後にエイドリアンに走ったベロニカの三人を中心に、40年後にひとつの遺言が残されたことから過去が呼び覚まされ、封印していた以上の記憶とさまざまな感慨が浮かび上がり、挙句にトニーは新たな事実を知ることになる。広告的な要約だが、書評を書こうとしているわけではないから、それ以上は書かない。面白かったし、久々にブンガクに触れて、それこそ自分の若かりし時代の様々な思いや記憶が蘇るような気がした。今では自分が文学から得ていたものや文学に求めていたものが、文学とは何の関係もない、単なる勘違いに過ぎないものであったことは分かっていても、小説を読んであれこれもの思いにふけるあの懐かしさを感じることは出来た。と同時に、この小説において「歴史」に対して向けられた懐疑の表白は、むしろ今のわたしに響くものであった。史料を読み解いて分かった気になることへの戒めも感じるし、それでもなお、記述せねば忘れ去られることが確実であるという漠然とした恐れも抱いている。

 映画は映画として十分面白かったのだが、ジュリアン・バーンズ本人は、映画の中のいくつかの改変をどう感じているだろうか。そもそも、この映画をどう評価しているのだろう。ちょっとそれを知りたくなった。それで早速検索してみると、The Guardianのウェッブ版に、バーンズへのインタビューを含む映画評が見つかったので読んでみた。それ自体が小説と映画の違いをめぐる面白い記事になっているが、基本的にはバーンズも映画は別物として自由に料理することに対して寛大な態度であるようだ。ただ、小説の結末がそれなりに悲観的というか厭世的であるのに対して、映画では楽観的なものになっていることに、多少の違和感は覚えているようだ。監督も脚本家も30代で若いから、自分のように厭世的にはならないのだろうとも言い、商業的な要請という映画に特有な事情に対する理解も示してはいるが、そのことについて聞かれてまず笑ったということからすれば、やはり何某かの不満はあったのではないかと思う。

 今回、ひとつの映画から出発して、久しぶりに小説や文学、映画というものを身近なものとしてあれこれ思いを巡らせることになった。かつては自分の生活の大部分を占めていたはずのそういう思考がなくなってから、どれくらいの時間が流れたのだろう。最近は、映画を観てもその内容についてはともかく、映画そのものや小説との違いについて、文学の本質に立ち返って考えてみることなど絶えてなかったのだが、自分のそうして得た感想や思いが、世の中へ出すほどの価値を持つものでないことは分かっていても、やはりそれはそれで刺激的で楽しい体験なのだと実感した。ブンガクがわりと近しいものに感じられたのである。

 なお、言及したガーディアンの記事は下記で読める。

https://www.theguardian.com/film/2017/apr/01/julian-barnes-i-told-the-film-makers-to-throw-my-book-against-a-wall-

 

 今回、この小説を読んでバーンズの小説を再び読み返したくなったのだが、とにかく書斎の書棚から一部の文庫本を除くと小説の類をほとんど追放してしまったので、探し出すのは容易ではない。机に座って目に入る範囲で書棚に並んでいる小説はユルスナールと『大菩薩峠』くらいしかないのである。