一流のもの・こと

 若いうちから一流のものに触れておけとはよく言われることである。確かにその通りだと思う。若く頭や感性が柔らかいうちに一流のものに触れていれば、後の人生においてものごとの判断の際に正しい基準が持てるだろうし、審美眼も育つ。とは言え、育ちの良さや家の裕福さがないと触れられないものも少なくない。料理などは上質で淡い出汁の旨味を小さい頃から経験するためには、よほど母親が料理上手か、親に割烹料理にでも連れて行って貰わない限りなかなか難しい。バレエや演劇、古典芸能なども、機会そのものが親の趣味に左右されるので、触れられればそれに越したことはないが、そう簡単ではない。チケットも安くはないので、庶民の子には敷居が高い。音楽となるとレコードやCDなどで一流の演奏を聴くことは出来るが、やはり一流の生の演奏となると日本では驚くべき値段となるので、そうそう行けるものではない。要するに、それらは家の貧富や文化度の違いによって、接する機会が著しく異なる可能性が高いのである。では美術はどうだろうか。東京をはじめとする大都市では、洋の東西を問わず一流の作品の展覧会は比較的簡単に行くことが出来る。最近は入場料も高くなってきたが、それでもクラシックの一流どころのコンサートに比べたら笑えるくらい安く、しかも一度で触れられる作品の数は比較にならない。とは言え、これも地方の子どもにとっては簡単なことではないだろう。画集で見ることは出来るが、レコードと同じで、本物を見るに越したことはないからである。

 そう考えてくると、貧富の差や居住地を越えて、誰もが一流のものに接する機会の最も容易なのは、文学や哲学であることが明らかになる。本は極貧でない限り買えるだろうし、図書館で借りられる。レコードや画集と違って、本となったものの「本物」が別にあるわけではないから、一流の作品に直に触れることが出来るのである。子どもの頃から文学を中心に本を読み、それがずっと習い性になっているわたしのような人間は、他のジャンルはともかく、少なくとも文学に関してはずいぶん早くから一流のものに接して来たわけである。これがおそらく、自分の審美眼や批評力に対して、多分に根拠のない自信を与えているものの正体なのだろう。自分より絶対的にすぐれた文筆家のものを読んで来たというに過ぎないのに、漱石とか三島、荷風、谷崎などと呼び捨てにする不遜さの理由でもあろう。読んできたものの一流さを知ることで、読んで来た自分も一流になったかのように思いなす錯覚である。とは言え、それは弊害という訳ではないだろうし、明らかに今の自分を作って来た血や肉だと思うから、他の芸術にくらべ、こんなにもたやすく一流の文学に触れやすくしてくれて「本」というものに、今さらながら感謝の思いを強くするとともに、こんなに簡単に一流のものに触れることができるのに、最近の人は何故本を読むことが少なくなっているのだろうと、不思議にも残念にも思うのである。本によって一流の文学に出会って、その影響で一流の美術や音楽に対しても意識高く接することが出来るのだろうし、芸術に対する敬意や敬愛も育まれると思うのだ。とは言え、そうして一流の芸術に若い頃から接して来たというお前が、今もって心豊かに暮らしている訳ではないのは何故かと問われれば、答えに窮するのもまた事実なのであるが。