京都ぎらい

 

 わたしは京都が嫌いである。一時は足繁く通っていたこともあるが、あることをきっかけにつくづく嫌になった。なまじ好きだっただけに、ケチがついて嫌いになるととことん嫌になる。京都生まれや京都に住む人たちに知人は増えたし、中には結構親しくして貰っている方も少なくない。その方たちはわたしが親しくするくらいだから皆良い人びとなのだが、一般的な京都人に対する警戒心や馴染のなさに引っ張られてか、どこかにクリアーな心情では向き合えないような感じがあり、気持ち的に少し距離を置くことが多い。もっとも、それは京都の人に限らない気もするのだが、とにかくその人のごく近くに踏み込めない感じは強い。

 それもあって、2016年に良く売れたという井上章一の『京都ぎらい』なる本を今さらながらに読んでみた。結果的に、わたしが知りたかった京都の暗部や京都人の嫌らしさについてはほとんど書かれていなかった。筆者のきわめて個人的な感情と経験をもとに、京都の人以外にはわかりにくい、洛中京都人の洛外人に対する蔑視といった嫌ったらしさは明らかにしてくれたものの、後は個人史的な視点からの京都と日本史をめぐるおしゃべりに等しかった。それもこの人の芸風なのであろうが、煮え切らない思いは強い。それで続けて、その井上と鹿島茂の対談の書『京都、パリ この美しくもイケズな街』を読んでみた。こちらも、井上の前著で知ったこと以上のことは出て来ず、鹿島の話すパリのことも大半は知っていたことであり新味はなかった。ただ、パリはわたしにとって依然好きな都市であり、京都はそうでないという点を考え合わせると、パリと京都に一切似たところはないという結論はその通りだと思うし、痛快だった。身の程を知れ京都、なのである。京都というだけでものが高くなり凡庸な品質でもそこそこ売れ、不細工なもてなしをしても観光客はいつでもやって来ると高を括り、お高くとまって唯我独尊、何でも京都が一番とふんぞりかえった腹のうちを微塵もみせず、金銭への執着だけはことさら強いのに表面的な愛想のよさは忘れぬ人々。そんな人々の多い京都という街に憧れていた自分の愚かさを痛感するとともに、段々京都の人が哀れになって来た。と言うより、目糞鼻糞の洛中洛外さや当て含め、どうでもいいことにも思えて来た。あえて嫌いを明言する必要もなかろう。無視すればいいことである。京都?はて、そんな地方都市もありましたね。ああ、思い出しました、昔歴史の教科書に出てきましたね。