京嫌い、再び

 とにかく京都が嫌いである。京都が好きでよく行っていた自分に腹が立つ。京都の鼻持ちならない文化と風土に反吐が出る。酔っていたのである。浮かれていたのである。厚化粧の下にある、老いさらばえてなお色気づく醜悪さや堅実なようで見栄っ張りなところから来る金に対する意地汚さに気づかなかった。いや、気づかないふりをしていた。それが、ある出来事で心底嫌な思いをしてから、目が覚めたようにすべてが明快に見えて来た。

 無意味なプライド。因循姑息なものの考え方。小成卑屈、頑固、柔奸、狐疑な人々。一見愛想は良いが、観光客や他県人を金を落とす馬鹿としか見ていない傲慢さ。伝統に胡坐をかき、権門の悪弊に染まり固陋に硬直した仏教界。欠点を挙げれば切りがない。京の地を離れた道元の偉さが今さらのように思い出され、深い尊敬の念に打たれるのである(その道元も京都で没したではないかと、京の人は負け惜しみを言うだろうか)。何かと非難すべきところの多い明治の維新政府であるが、東京に遷都したことだけは評価してもいいのではないかと思う。あのまま京を首都にしていたらと思うとゾッとする。

 だから、コロナで観光客が減って閑散とした観光地の様子をテレビで見ると、正直いい気味だ、ざまあ見ろと思った。と同時に、観光客のいなくなった京の町の姿はさすがに落ち着いた、良い雰囲気を醸し出しているので、段々それにも腹が立って来た。

 京都によく行っていたのは、平家物語を読み藤原道長の日記を読み、その他もろもろの歴史を読んでその舞台となった場所や旧蹟、寺社仏閣を見たかったからに他ならない。しかし、今までにたいていのところには行ってしまったし、今やこれまでのような物見遊山的な「観光」が気軽に出来るものとも思われない。もちろん、そもそも京都に行く気はまったくないのだが、一方で、調べものに行く必要があることも幾つか残っている。あるいは、尺八関係の行事は京都で開かれるのが通例であったから、今後再開されれば嫌々ながら行くことになるかも知れないが、とにかく京都に金を落としたくない。拝観料は払いたくないし、宿泊はおろか飲食も避けたい。地下鉄やバスやタクシーにも乗りたくない。一度嫌いになってしまえば、ここまで憎み忌み嫌うことになるのが京都という都市なのではないかと思う。

 仏教少年だったわたしは、奈良の古寂びた古寺を好んで長らく京都の華美を嫌って避けていた。それが、歴史がきっかけだったか、しばしば通うようになって好きになった。それでも華美絢爛な方ではなく、禅庭や侘茶的な部分を好んで来た。それが、本当に一夜にして嫌いになった。嫌うきっかけを探していただけかも知れないのだが、とにかく京都の庭や街並みなどを良いと思っていた自分自身に一番腹が立って、二度と行きたいと思わなくなったのである。わたしと同じような経緯で「京嫌い」になった人は、案外少なくないような気がするのだが、どうだろうか。