稲畑勝太郎

 鹿島茂の本は結構読んでいる。といっても驚くべき多産な書き手なので、読んでいるのは書いたもののほんの一部なのだろうが、まあまあ楽しめる本が多い。軟硬とりまぜた、情報量の多さとそのさばき方、そしてわかりやすい図式化などが長所だが、ときに杜撰なやっつけ仕事的なものも散見する。面白い本を書いてくれる分は大いに敬意を表するが、ひとりの人間としては、ぐいぐい前に出てくるつきあいにくいタイプではないかと思う。くらべる必要はないのだが、少なくとも高山先生に対するような敬愛は感じない。

 その鹿島の本『パリの異邦人』と『パリの日本人』をつづけて読んだ。良い意味でも悪い意味でもパリの魅力に憑りつかれた人びとの足跡を追ったものである。「世には2種類の人間がいる。パリに住んだことのある人とない人だ」という帯のコピーに始まり、まさに若い頃パリに住んだために今でもパリという存在の大きさの中に自分を置いてしまうわたしには「わかる、わかる」という感覚の多い文章が並ぶ。特にリルケに関する文章は、よくぞ言ってくれましたというような共感で一杯になった。パリがその人に与えた影響を「陽パリ」と「陰パリ」に分けた上で、リルケを陰パリ派の代表とするわけだが、わたしがパリに関するイメージを作り上げたのがリルケの『マルテの手記』にほかならないから、その感覚も孤独感も実によく理解できるのである。わたしにとってパリとは何よりも、孤独であることに意味を見い出せる街であったからだ。

 その後のヘミングウェイオーウェルヨーゼフ・ロートガートルード・スタインあたりの文章は流石の切れ味を見せているが、残りのものはページを埋めるための駄文になっているのは残念であった。同工異曲の日本編、ただしこちらは敢て文学者や画家を対象としなかった『パリの日本人』の方が、わたしには面白く読めた。松尾邦之助や石黒敬七、中平文子などは今まで知らなかったので興味を持った。ところで中に稲畑勝太郎が取り上げられていて、あれっと思った。著者も弁明しているが、稲畑が居たのはリヨンだから、正確にはパリの日本人ではない。もちろん、日仏交流に尽くした稲畑をここに加えることに異論はないのだが、その内容については不満が残った。

 明治1011月にお雇い外国人であったフランス人レオン・デュリーに率いられてフランスに渡った十五歳の稲畑勝太郎は、リヨンで染色などを学んで明治18年に帰国する。その後さまざまな事業に関わった後染料や化学薬品などの輸入を手掛ける稲畑商店を作って成功を収める。文系の人間の興味を引くのは、リュミエール兄弟と知り合いであった稲畑が、日本で初めてシネマトグラフの興行をしたことだろう。ところが、その稲畑とリュミエール兄弟の兄が通った工業学校の名を鹿島は「アルチニエール」としていて、おそらく『稲畑勝太郎君傳』を踏襲したものだろうが、これは「ラ・マルチニエール」が正しい。それだけなら、まあ看過できなくもないが、アラン・コルバン『においの歴史』の訳者である鹿島が、稲畑が香料の輸入も手掛けるきっかけとなった、同じくマルチニエール出身のグザビエ・ジボダンとの出会いについて言及せず、稲畑商店香料部門が独立したのが現在の稲畑香料であることに全く触れないのは残念な気がする。グザビエ・ジボダンこそ、弟のレオンとともに、現在世界最大の香料会社で飛ぶ鳥を落とす勢いを見せる、ジボダン社の創設者だからである。アラン・コルバンの訳者にして、視覚文化の王道「映画」については触れ、嗅覚文化を完全に無視しているようにも取れる。一般の人が稲畑勝太郎のことを知る機会などそうないと思うから余計に、ここで一言触れてもらいたかったのである。染料と香料、すなわち「色と香り」がいかに近しい領域のものであったかを多くの人に実感してもらうためにも、稲畑が絶好の人物だとつねづねわたしは思っているので、余計に残念であった。