つまらない日々

 何だかつまらないのである。何をやっても面白くない。気力がなく、何もかもが面倒でうんざりする。そして何より眠い。11時に寝て6時に起きる生活だが、実際には就寝が11時半近くになることもあり、7時間眠れるわけではない。そもそも、8時間寝ないと頭がよく働かない性質なのである。だから、朝の通勤電車で20分、昼休みに20分、さらに帰りの電車で15分くらい居眠りをすることになるが、それでも正味8時間に足りず、細切れではよく寝た感はまったくない。電車の中では昏睡状態で、危うく乗り過ごすことも少なくない。

 仕事も同じことが続いて厭き始めたということはある。とは言え終わるまで投げ出せないタイプの仕事だから、気分は余計に憂鬱になる。そして、何より減給による生活の不如意が胸に詰まるような感じで常に精神を圧迫する。貧しさというものは、これ程までにやる気や元気を奪うものなのだ。新自由主義の信奉者たちは、そのことへの想像力を欠いた、それはそれでモンスターたちなのだという気がする。新自由主義は格差を拡大し確実に世界を崩壊に導く。それだけははっきりしていることのように思う。

 それと、老化という実感も心を憂鬱にさせる。自分では若いつもりでも、世間の人から見ればただのオッサンだろうし、実際動作は遅くなっているし体も硬くなっている。必死にカロリーや糖質を減らして歩いていても、なかなか体重は減らず、気を抜くとすぐに増える。恋愛感情のようなものを感じなくなって久しいが、性欲も衰え、と言うより、性的なことやエロティックなものに全く興味を持てなくなっている。恋心を抱くような女性ももはや世間に見い出せなくなった。美しい女性を目で追うこともしなくなったし、実際魅力的な女性をとんと見かけなくなった。若くて可愛い娘はいるが、無知なのは分かり切っているから魅力的には見えない。話が合って魅力的な女性もいなくはないが、そういう人は自分の年齢に近くなるので、異性として見られなくなる。ときめかないというのはつまらないものである。

 和のこともすっかり興味が失せ、茶も香道も、まあ惰性で続けているようなものだし、段々日本文化そのものが嫌いになって来た。知りもしないのに日本の文化が優れているように言いなす連中に吐き気がしているせいかもしれない。また、ダイエット食にしてからはワインも飲まなくなり、そうなるとたまに飲んでも大して旨く感じない。人と酒を飲んでも憂さは晴れず、喋りすぎて後からかえって嫌な思いをすることが多い。食事も酒も楽しめず、趣味にも興趣を覚えない。だいいち、本を読んでも面白くないのだ。ずっと経済学や経済史の本を読んでいて、途中までは面白いと思っていたのだが、いつの間にかつまらない思いで、これも惰性で読んでいるだけだ。と言うより、読んでも中味をすぐ忘れてしまい、何にもならないという徒労感ばかりが募る。きちんと経済学を一から学びたいと思っているのに、一にも満たないうちに、学んだことを忘れていくのである。

 文学を読まなくなって久しいが、こういう時には文学もいいのかも知れない。思春期からずっと、現実のつまらなさと屈辱から逃避するためだけに読んでいたのが文学だったと、今にして思うからである。ただ、もし今改めて文学に自分の興味関心を掠め取られてしまうと、仕事や生活が成り立たなくなる可能性があるので、多少不安がある。いや、今では批判的に読むのに慣れたせいか、そんなに素直に心揺り動かされる作品に出会うことはないのかも知れない。だとしたら、詩や小説を読んだところで、今のつまらなさが消えるものでもなさそうだ。まさに八方塞の状態である。刺激を求めて一人旅や冒険に出たくもなろうというものだ。しかしまあ、自分の無能や無力、怠惰や困窮といったものを、日記やノートやこうしたブログなどに、綿々と書きつけては、ほんの少し気分を楽にしてきたのも事実であり、つまらない人間のつまらない人生の苦さを僅かでも和らげてくれるものが、要するに書くということなのだと改めて納得するものの、それにしてもつまらない文章を書き綴ったものだという気がして、ブログの公開などをして来た自分の破廉恥さにさらに嫌気がさしてくるのである。