病弱

十一月二日(金)陰後雨
寺田寅彦の日記を読んでいる。大正四年から八年にかけて読了。大正という時代の知識人たちの生活スタイルや時代の感覚を知りたくて読んでいる。あったこと、したことを淡々と述べるスタイルなので、斷腸亭日乘などにくらべればそれ程面白いものではないが、漱石の死についての淡々とした記述や、理化学研究所の設立に関わる諸会合の出席の記録など、ところどころ興味を引くところはある。しかし、それ以上に驚くのは、寅彦を含め家族が実によく病気になっていることである。私もこのところ風邪ばかりひき、もともと体が丈夫な方ではないので、他人事ではないのだが、子どもたちが風邪で熱を出すなど日常茶飯事で、母親や奥さんもすぐ病気に罹り、家族はかなり頻繁に医者に診てもらっている。赤痢など重篤な病気である可能性を恐れてのことだろうが、子どもを持つ親の心配の絶えなかったことがよくわかる。生活に余裕のある東大教授の家庭で知人には医者も多くいたようだから、寅彦の子どもたちは普段からすぐに診察を受けて事なきを得ていたのだろうが、庶民の場合はそうしたちょっとした病気から呆気なく死んでしまう子どもも多かったのだろうと思われる。子どもではないが、実際この期間に寅彦は二番目の妻寛子を亡くしている。それも極めて事務的に書かれているので、あらためてそこに至るまでの病状の記載を読み返さないと、あまりに唐突で納得できないようなところがある。寅彦自身も胃潰瘍で吐血して入院したり、風邪などで結構学校を休んでいるのがわかる。それにしても、日記を読み進めていると、病気どころか人が実に頻繁に死んでいくのには驚くばかりだ。交友の広さの違いかも知れないが、当時の寅彦より十歳以上高齢の私がそれほど訃音に接する回数は多くはないのに、寅彦の場合週に一度は誰かが逝去した旨の記載を残している。同じ日に二人の知人の死を告げることもあって、これでは気分も滅入るだろうと思うが、一方で命そのものや生きてある時間への感じ方が今とは随分違うものになるのだろうという気がする。昭和十年代になると戦争によって死はさらに身近になるとは言え、第一次大戦での好況を謳歌しているはずの大正のこの時期であっても、人々の日々の暮らしが底抜けに明るいものではなかったであろうことが十分想像されるのである。