3つの婚約解消事件

 先日、浅見雅男の『大正天皇婚約解消事件』を読み終えた。これで、『闘う皇族』と合わせ、明治後半から大正期にかけて起こった三つの婚約解消事件の詳細を知ったことになる。そのすべてに「伏見宮系」皇族が絡んでいる。簡単にまとめておこう。

 まずは、他ならぬ大正天皇の婚約にまつわる話である。明治天皇は結果的に嘉仁親王(後の大正天皇)しか実子の男性が残らなかったことから、皇統の継続を危惧して早くから嘉仁親王の妃となる女性を探させていた。すなわち、候補となる女子を三~九歳のしかるべき家柄の中から選ばせていたのである。その中で、家柄や容姿、性格も含めて一頭地抜きでていたのが伏見宮貞愛親王の娘禎子(さちこ)女王である。明治26年には婚約が内定する。この時禎子女王9歳(数え歳、以下同じ)、嘉仁親王は15歳である。ところが、明治32年に至って禎子女王に肺病の疑いが浮上し、紆余曲折があって結局婚約内定が取り消されてしまうのである。このことを前宮内大臣土方久元に告げられた貞愛親王は謹んでこれを受け入れた。

 この後、嘉仁親王の妃選びが再び始まるわけだが、それがなかなかうまく行かない。紛糾したのは、何といっても禎子女王をおいて他に適切な候補がいなかったことが大きい。最終的に五摂家九条家の節子に決まるのだが、彼女に対する周囲の評価は健康だけが取り柄というにあった。要するに容姿は二の次だったのである。

 ちなみに、婚約を解消された禎子女王は土佐の山内家十六代当主の豊範の長男である豊景侯爵と結婚し、皮肉にも健康だけが取り柄だった節子(貞明皇后)よりも長生きした。ただ、子には恵まれず、貞明皇后が周知の通り4人の男子を産んだのとは対照的な結果となった。結果から見れば、皇室にとって正しい選択だったとは言えるかも知れない。

 次が、いわゆる宮中某重大事件である。貞明皇后が産んだ第一子である裕仁親王の婚約者として内定していた久邇宮家良子に対し、色盲の遺伝の恐れありとして紛糾した事件で、これは前に触れたから詳細は省く。結果だけ言うと、良子の父久邇宮邦彦王の常軌を逸した抵抗運動により予定通り良子と裕仁の成婚となる。邦彦王は中川宮、賀陽宮などを経て久邇宮の初代となった朝彦親王の子で、大正天皇婚約解消事件の当事者禎子の父伏見宮貞愛親王は邦彦王の叔父に当たる。

 最後が、その邦彦王の息子で従って良子の兄でもある朝融王の婚約解消事件で、これは朝融王がひとめ惚れして婚約した旧姫路藩主の酒井家出身の菊子に対し、途中で気が変わったかこともあろうに菊子の「節操に関する疑い」を持ち出して婚約破棄に至らしめたのである。自分の娘を大方の見解に反してまで、皇太子妃にねじ込んだそのすぐ後に、今度は息子の婚約破棄を不確かな根拠でごり押しするのであるから、開いた口が塞がらないとはこのことである。しかも、この朝融王は結局伏見宮博恭王の娘知子女王と結婚するが、身持ちは改まらず侍女に子を産ませたりしている。しかも、後のことにはなるが、未亡人となっていた嘗ての婚約者前田菊子に結婚を申し込んだとも伝えられる。ここまで来ればむしろあっぱれという感があるが、前のふたつの婚約破棄事件を知り、その渦中にあった一族の人間であることを思うと、やはり呆れるしかないのである。

 こうした、伏見宮系皇族の不始末を見てきて、わたしにもやっとわかってきたことがある。それは、明治維新を境として、僧侶と神官の地位が劇的に逆転した現象と、この一族の浮き沈みがパラレルなのではないかということである。江戸期には幕府の宗教政策もあって圧倒的に高い地位につき、神仏混淆とは言え実質的に神官をも支配していた僧侶に対し、維新の原動力であった勤皇思想や明治政府の国家神道化政策もあって、明治以降は俄かに神官の地位が高まったのはよく知られているところである。廃仏毀釈により、僧侶から神官に宗旨替えした者も少なくなかった。その動きの中で、神官たちによる僧侶に対する積年の恨みを晴らすような言動も多かったのである。

 その、僧侶と神官の地位・立場の逆転と同じようなことが、五摂家と宮家の間に起こったと考えると、伏見宮系皇族の振る舞いも少しは理解しやすいものになるのである。江戸時代には朝廷の行事において、五摂家の方が宮家よりも席次では上であったという。五摂家のうちには幕府と通じていた家も多かったから、中下級の公家中心だった倒幕派薩長と組んで王政復古を成し遂げると、五摂家の地位は仏教の僧侶のように急速に下がったものと思われる。逆に、皇族や宮家の地位が上がったのである。実際、江戸期の天皇の正妃は大半が五摂家から迎えられていて、伏見宮家などの勢力は明治以降とは比べ物にならないほど小さかったのではないかと思う。

 それが、幕末の混乱の中で有栖川宮家を始めとして維新期に重要な役割を果たすことで一気に地位の向上を果たすのである。元より特別な宮家としてプライドだけは高かった伏見宮系の人々が我が世の春として動き出すのもむべなるかなではある。近代の日本が天皇制のもと、皇族の志尊を強調すればするほど、宮家も同じくつけあがるという構図である。国家の根幹として、藩閥政府によりある意味厳しい目で監督され、またそれに応えて謹厳な家風を維持した天皇家とのバランスを取るつもりではないだろうが、伏見宮系の皇族たちは明治以降、特に維新前後の変転を知らない世代になると、好き放題に暴れまわった感が強い。

 もちろん、五摂家vs.伏見宮系皇族とは言っても、間に天皇家武家華族を挟んで複雑な婚姻関係で結ばれていて単純にふたつの陣営に色分けできるわけではない。ただ、ここで見た三つの婚約解消事件をこの視点で見ると面白い結果になっている。すなわち、最初の事件では伏見宮系からの久々の皇后誕生を、五摂家側が何とか阻止したともとれる。仁孝、孝明、明治と続いた五摂家からの正妃に続き、何とか五摂家の地位の温存に成功したのである。逆に裕仁親王の婚約では、九条家出身の貞明皇后の意に反してまで伏見宮系の久邇宮家が何とか後の皇后をねじ込み、その勢いで朝融王の婚約解消までゴリ押しして宮家側の力のほどを見せつけたと解釈することも可能なのである。伏見宮系の二勝一敗である。

 これほどのさばって、かつ前にも触れたように戦争責任のある皇族を輩出した伏見宮系の皇族が、戦後に厄介者として一括排除されたのは当然であろう。特に、昭和天皇に二人の男子、今上上皇にも同じく二人の男子が生まれて皇統の継続が一応安泰と見えた時期までは、伏見宮系の皇族の存在の意味は全くなくなったと言っていい。しかし、今また男系の継承に拘るあまり、再び伏見宮系の皇族を復活させて暴れまわらせるような愚策だけは、あってはならないことだと思っている。

 

追記: 『旧皇族華族秘蔵アルバム 日本の肖像第六巻』(毎日新聞社、1989)という本を図書館から借りて来て、山内禎子(伏見宮禎子)の写真を見た。目もとのきりっと整った上品な顔立ちだが、特別な美人というわけではなかった。というより、貞明皇后が「健康だけが取り柄」と言われるほどには、二人の間に格段の差があるとは思えなかったのである。ともに、当時の日本人の大半に比べれば、きわめて品のある女性であることに違いはない。なお、この本で最も印象に残ったのは、昭和36年に、年老いた着物姿の禎子が「菊栄会(皇室の親睦会)」で、昭和天皇と良子皇后に話しかけている写真であった。上に書いた事情を知ると、複雑な思いの湧いてくる一枚である。