声明

十月二十九日(土)陰
国立劇場に赴き声明を聴く。一時より真言宗高野山の四箇法要。観客の年齢層が異様に高い。恐らく平均で八十歳を越えているのではないか。四十代を含む我が家などかなり若い部類である。登場から法衣や所作を含む一切に目が釘付けになる。そして声明が始まると一気にその場の空気が変わる。東大寺お水取りとはまた別の、声による伽藍の如き真言声明であり、途中からα波が流れすぎて半覚半睡の無我の境地に入る。音は聞こえているのに意識が飛んでいて、それでいてモニターしている意識もジージーと動いている感覚である。頭の中のノイズがすっかり消え失せた感じがあり、感想とか批評の入り込む余地のない忘我の境地と言ってもいい。一時間半ほどで終わり、一度外に出てコーヒーを飲む。
四時から第二部天台声明。いきなり雅楽の楽器を使ったイントロで僧侶の衣装も煌びやかであり、朝廷や京の貴族たちとの関係の深さを感じさせる。同じ四箇法要であるのに、まるで様子が違うのも面白い。それに、客層が第一部より明らかに若い。一部では見かけなかった小中学生もいるし、二十代らしき女性もちらほら見えるし、総じて老人の姿が少ないのである。比叡山延暦寺の声明は歌うような、母音をかなり長く伸ばして揺らぎながら音程を変えるもので、真言が声の伽藍なら天台は声のオーロラといったら良いだろうか。或いは、瞑想の高野山に対して幻想の比叡山と言おうか。真言ほど脳幹を痺れさせることはなく、うっとりと夢見がちに音に身を委ねる感じになる。両者の違いは明白で、重厚な高野山と雅な比叡山という分け方も可能だろう。要は好みの問題だが、私はどちらかと言えば真言を好むようである。ただし、読経という点で言えば、それでもなお永平寺で聞いた曹洞宗のものを最も好む。
ところで、この最中に残念なことがあった。般若心経が始まると、後ろの席の老人がなんと唱和を始めたのである。始まる前にも仏教について偉そうに声高に話していたのを聞いているし、小声ではあるが上演中にも連れの老婦人に何か喋りかけたりもしていた人で、傍若無人な振る舞いに私は止めて貰えますかと言って止めさせた。仏教儀礼に参列しているのならともかく、伝統芸能の保存と鑑賞を目的とした国立劇場での演目である以上、声を出して経典を唱え始めるなど非常識も甚だしい。こういう老人がいるから老害と言われるのである。
それを除けば、ふたつの代表的な声明を聞けたのは大変に良い経験であった。東大寺修二会もまた聞きたくなったし、他の声明も機会があれば是非聞いてみたいと思う。それにしても、神社の神事や芸能もそれなりに神秘的ではあるものの、「意味」を含む行為の全体としての儀礼では明らかに仏教の方が高度で洗練されたレベルにあると思う。神仏混淆というより、長い間日本で本地垂迹として仏教が神道の上に立つ形となっていたのは、この圧倒的な文化力・思想力の差から来る必然であったのである。
急ぎ帰宅して日本シリーズを見る。日本ハム優勝。快勝に酒も進み美酒に酔い、家で飲むにしては異例なことに飲み過ぎる