仏前読経問題其の後―1

わたしが今考究してゐる此の問題に興味を示してくれたのはまだ二人しかゐないけれども、わたしの探究心はさらに強くなつてゐる。アプローチとしては、読経の歴史と仏像の成り立ちといふ二つの方向が考へられやう。読経の歴史を調べることは当然経典そのものの成立過程とも関り、といふことは要するに原始仏教から上座部、大乗へと展開してゆく仏教の歴史を見渡すことになるわけだから、勉強することは山ほどある。まあ、最初から仏教そのものに取組まうとすればすぐに挫けさうだから、あるテーマのために仏教といふ巨大な山の僅かな景観でも眺められれば良しとするつもりで近づいてみやうと思ふ。とは言へそれぞれの仏典の解釈や教義的研究に比べると、膨大な仏教経典全体の歴史的な概観の研究はかなり難しく遅れてゐるやうで、今のところ経典の成立から仏像を前にした読経に到り、其れがさらに声明や読経道、念仏などに至る宗教思想史的通史のやうなものは見つけ出せずにゐる。声明や仏典に関する個別の研究書はあつても、なかなかわたしの疑問に直接答へるものがない。さうしてゐるうちに、主要な経典はやはりきちんと読んでをきたいといふ気持ちが強まり、年末年始の休みに手始めとして法華経を読むことにした。岩波文庫版は持つてゐるが、同じく岩波から数年前に出た植木雅俊訳の梵漢和対照現代語訳本を図書館から借りて来て参照しながら読むつもりである。
一方の仏像からのアプローチでは、偶然良い本にめぐり会へた。長岡龍作といふ人の書いた『日本の仏像』(中公新書)である。題名から予想されるやうな、仏像のガイドブックでも美術史の本でもなく、仏像は何故、何のために作られたのかを、日本仏教の創成期の実際の造像の経緯を当時の宗教的な観念や前提となる仏教や道教の思想を考察しながら、それぞれの仏像に込められた意味や祈りの形を読み解くといふもので、極めて刺激的な本である。わたしの疑問を考へる上で教へられることも多く、仏像といふものに嘗ての日本人が抱いた感情や、仏像を造るといふことの意味などが理解でき、仏前読経問題を考へる上で大きな助けとなつたことは間違ひない。また、『仏説大乗造像功徳経』といふものの存在を教へられ、早速図書館で『大正新脩大蔵経第十六巻経集部三』を借りて来た。併せて『國訳一切経』も借りたのだが、何と『仏説大乗造像功徳経』は読下し文がなく、結局『大正新脩大蔵経』の漢文白文を漢和辞典を頼りに読み進めるしかなくなつてしまつた。ただ、是を読めば、仏像が功徳をもたらすからくりについてだいぶ理解が進みさうで、仏前読経に至る筋道が摑めさうである。ちなみに、借りてきた『國訳一切経』に『仏説作仏形像経』といふ短い経の読下し文が収められてゐたので読んでみたが、こちらは仏の像を造つた者が得られる果報の羅列のやうなもので、『日本の仏像』の中で紹介されてゐる『仏説大乗造像功徳経』のやうな、初めて釈迦の像が出来るまでのいきさつや、仏の似姿を造ることの不可能さについてなどの詳しい話は載つてゐなかつた。

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本日剃髪、勿論長く伸びた顎鬚も剃つた。之より二月二十二日まで、謹慎修行の期間に入る。まだ三回目だが、冬の寒い時期にわたしの生命力は弱まり煩悩は高まるため、過ちを犯さぬやう自ら心して日々を過す為の決意である。三度目ともなると鏡を見ても驚きはしない。むしろ懐かしい人に会つたやうな、妙な気分である。斎戒勤行坐禅読経に読書の日々の始まりである。