仏前読経の謎

十一月二十九日(月)晴
通信読者の知人から、七十一号のわたしの疑問に答えてゐる本があると教へられて早速読んでみた。苫米地英人著『お釈迦さまの脳科学』といふ本である。此の苫米地といふ御仁、経歴や肩書きはかなり胡散臭いのであるが、平易な語り口ながら中々刺激的な論点も多く、日本の仏教や「スピリチュアルブーム」を批判する切り口は極めて「まとも」であつた。そして、ブッダは輪廻も霊魂の不滅も否定してをり従つて先祖崇拝を含む日本の葬儀葬式は仏教ではないといふ主張や般若心経は偽経であり仏教本来の教へとは異なるといふ指摘は刺激的であったし、「空」とは抽象度を最高に上げた概念であるといふ説明や、縁起とはあらゆる存在が宇宙のすべてと関わつてゐることを指すといつた解説はわかりやすく納得させられた。もちろん、穢れ観念の解説など、わたし自身が多少なりとも詳しく知つてゐる分野になると、その主張に疑問を感じざるを得ないことはあり、此れを敷衍すれば全篇疑はしいとも思へるのだが、此れだけを読んで信じ込むのでなければ面白い本だと思ふ。地獄も諸神諸天、極楽や薬師如来も、ましてや僧の飲酒や妻帯など本来の仏教ではあり得ない事であることをここまではつきり言ひ切つて貰へると積年の胸の痞へが消え去つたやうな爽快感がある。とは言へ、わたしにとつてはそのやうに重層的に作り上げられて来た日本仏教の思想や神仏観も興味の対象であるのは確かだから、世の原理主義を批判しながら「仏陀原理主義」に近づいてゐるやうな氏の視点がすべて正しいとは到底思へない。それでゐて、禅にしても空海にしても、探求してゆく前提としてやはり「仏陀」に戻つてそれを押へる必要のあることは痛感させられた。
ところで、「何故仏像に向つて読経するのか」といふ通信で書いたわたしの疑問に関する苫米地氏の見解は、次の点であらう。まず、偶像崇拝は仏教の本来の姿ではないといふこと。後発の大乗仏教は自らを権威づけるために経典を庶民の理解できないサンスクリツト語で書いた為、呪文(マントラ)化したといふこと。そして、念仏とは文字通り「仏を念ずる」こと、すなわち瞑想であつたのに、道教の影響下にある中国の浄土教において念仏に仏像を必要とするやうになつたといふものであつた。其れは其れで明瞭で参考にはなつたが、此の本はすべてにおいて殆ど論拠を示さないので、何を以てさう判断できるのかが分からない。ヒントとしては面白いが、浄土教以前にも仏前読経はあつたと思はれるし、大乗だけの特徴とも思へないから、結局のところ自分で調べて行くより他は無ささうだ。
さうなるとバラモン教を含めたインド古代宗教での経典の扱ひや読経の実態や偶像崇拝との関係も知りたいし、道教儒教偶像崇拝についても何も知らないことに気づく。日本に話を限つても今読み進めてゐる『読経の世界』から、「音霊信仰」や律令制における漢音の重要性など考へてみるべき問題の範囲が少しずつ分かつて来た。殆ど主題として扱われたことのない問題だけに、研究の筋道は不確かながら相当に面白さうである。
本来の仏教思想の探求からすれば脇道に逸れてゐるやうにも見えるが、此の「仏前読経」を巡る疑問の連鎖は意外と、「当たり前」の陰に隠れてゐたわれわれの宗教意識の地層を掘り出すことになるかも知れないと思つてゐる。
【補足】仏前読経の謎とは、神仏習合において仏法によつて救はれたいと願つた日本の神に対して僧侶が行つた「神前読経」は、経典が抑々仏陀の語つた「法」である限り理に叶つてゐるやうに思はれる一方で、では釈迦如来などの「仏像」に向つて読経するとは、正に「釈迦に説法」ならぬ「釈迦に読経」になるのではないかといふ疑問のことである。何故仏像に向つて経を読誦することを誰も不思議に思はないのか、いつ何処でどのやうにしてその慣例が定着したのかを知りたいといふことでもある。