スマナサーラ長老

昨夜『佛説大乗造像功徳經』読了。佛陀在世中に初めて佛像が造られた顛末と、佛像を造ることの功徳を佛陀が説く大乗經典で、佛陀の時代は勿論其の後五百年以上に渡つて佛陀の像など刻まれることはなかつたといふ歴史的事実を無視した、全くの捏造經典である。佛像誕生の経緯と其の後の展開を美術史的に知つてしまふと、佛像について述べてある經典がすべて嘘くさく思へて大乗佛典の信憑性が疑はしくなつてくるとともに、大乗佛教といふ運動自体に疑念も覚えずにはゐられなくなつて来る。まあ、最近の読書で禅宗の戦争協力や中世寺社勢力の実態を知つてしまつたといふこともあるが、日本の佛教に対する敬意を失ひ始めたのは事実である。日本思想史の一面としての佛教には勿論興味はあるが、自分が佛教に求めるものと大乗佛教がして来た事とが決定的に違ふものであることが分かりかけて来たと言ひ換へてもいい。
そんな折、たまたま今日開催された日本テーラワーダ仏教協会主催の「初期仏教一日体験会」といふ催しに1500円の参加費を払つて参加して来た。780人入るといふ渋谷の区民会館さくらホールが7-8割方人で埋まる盛況で、二時から八時まで、スリランカ出身のスマナサーラ長老による指導と質疑応答が行はれた。テーラワーダ仏教とは、所謂小乗仏教と大乗から蔑称された上座部佛教のことで、先日読んだ『タイの僧院にて』で青木保が出家したのもテーラワーダ佛教の寺院であつた。堕落を重ねた大乗佛教に比べれば、パーリ語の經典を用ゐ戒律を重んじるテーラワーダ佛教は、佛陀の説いた原始佛教に近いものといふことができやう。
スマナサーラ師の佛陀の教へに対する、日本人の僧にはまず見られぬやうな絶対的な自信に満ち、同時に極めて合理的な説明を聞き、わたしは得る所が大であつた。結論から言つてしまふと、此の体験によつてわたしはますます大乗離れ、テーラワーダ傾倒を強めてゆくものと思はれる。勿論上座部でも佛像の功徳は説かれるのだが、今後は大乗佛典よりもパーリ語原始佛典や上座部の經典を読んでゆくことになりさうだ。禅に未練は残つてゐるものの、禅の目指す「無」や「大悟」よりも、雑念や「思考」を振り払ふことにより「心」の姿をつかみ其れを浄化しやうとするヴツパサナー冥想の方が佛陀の教へに近い気がするし、何より坐禅より冥想の方が易行である。
新興宗教ではないから入信への勧誘や妙な商法も一切なく、質疑応答に於ける師の回答も極めて納得の行くものであつた。ただ、質疑の用紙にわたしが書いて出した、佛前読經をだう考へるかといふ質問は黙殺された。事務局の選択だらうが、取り上げられた質問は職場での人間関係とか子育ての悩みといつたものであつたから仕方ないとは思ふ。ちなみに会場で配られた協会の会誌を見ると僧が佛像に向つて読經してゐる写真があつた。