学校楽しい?

五月七日(月)陰後雨
連休中に知人一家と食事をした。今年小学校にあがったばかりの坊やがいて、人なつこくて可愛いのだが、私は「学校はどう、楽しい?」とは聞かなかった。自分が一年生のころ、親戚や誰とも知らぬ大人たちからそう聞かれる度に嫌な思いをしていたからである。何の気なしの、本当に楽しいかどうかを知りたい訳でもない、他に話題がないからなされるありきたりの質問だとわかっていても、そう聞かれるたび私は困惑し返答に窮していたのを今でもよく覚えている。何も考えずに「楽しい!」と元気に答えられるような素朴な子どもではなかったし、もちろん辛いことばかりなわけではないが、「学校」というひとつの事象があるわけではなく、学校で起ることには様々あって、そこには当然楽しいとだけ言っては不十分な諸々の感情や感想があるのであって、それを簡単に一言であらわすのは難しく、そもそも具体的な事情を知らない大人たちに私の言おうとしていることが理解できるかどうかを危ぶんでもいたのである。思えば私は気を遣う子どもであった。相手に嫌な思いをさせては申し訳ないと誠実に対応していたし、一方で自分と同じ歳くらいの子どものそうした配慮とは無縁の無邪気な言動には、この人たちとは到底わかり合えないと絶望もしていた。大人たちとも子どもたちとも折り合いが難しく、しかも私の配慮や気遣いはあまり理解されることもなく、私はつねに孤独を感じていた。そして、長ずるに従ってそうした気遣いが馬鹿らしくなり、大人も子どもも軽蔑するような人間になってしまった。無理解に傷ついていたのである。配慮をしても気づきもしない無理解な人々と接することに傷つき疲れ果てて、そんな馬鹿げた苦労をする必要はないと考えるようになったのであろう。私は配慮を捨ててある意味自分を閉じてしまったのである。その結果、私にはつねにわがままであるとか自分勝手、さらには子どもらしくないという暴言が浴びせられるようになる。私はわたしなりに、例えば葬式の席でぎゃあぎゃあ騒ぐ同じ年頃の子どもを心底軽蔑しながら、葬式にふさわしい顔つきで静かに列席していただけなのだが、大人たちの子どもらしい振る舞いへの期待に応えることは絶対しないようになっていった。そしておそらく、「学校は楽しい?」と聞かれると、すぐさま楽しいとは如何なる心的状況を指すものなのであろうか、などと考える子ども(そして大人)になってしまったのである。