自軽自嫌

五月十五日(火)
表題とした自軽自嫌などということばは勿論存在しない。自重自愛ということばを単純にひっくり返しただけである。ただ、馬齢を重ね、最近いかに自分がうかうかと生きて来たかを実感して心底がっかりしている身としては、この表現の方がしっくり来る。自分を軽んじ、自分が嫌いなのである。あの時の決断も、この時の態度も、あの頃の日々の行いも、今思えばすべて失敗であり、反省すべき点が多々ある。その結果として今があるのであるから、すべては受け入れるべきことなのだが、少しは人の心や世の中の仕組みが分かって来たせいもあるのだろうが、自分の馬鹿さぶりにため息が出るのである。そしてふと、若いころに同年代の友人たちが私を評して言ったことばを思い出す。いわく、どこに居ても場違い。いわく、流行遅れの最先端。いわく、素直な嘘つき。とりわけ、どこに居ても、どんな場に出ても場違い感を醸し出すことは、自分でもうすうす気づいてはいた。その場に馴染めない、馴染もうとしない。斜に構えたスタンスで孤高を気取る。醒めた目で見下すように見ているか、場違いにはしゃいで茶化してしまう。自分よりすぐれた人たちとはなるべく距離をとって、自らの劣位をなるべく感じないようにする。それでいて、安心できる人たちといる時は、まるで、周りにいる人たちと同じ仲間として見られるのが迷惑であるかのような態度をとってしまう。何のとりえも個性もないからこそ、自分は人と違っていると思い続けなければ自分を保持できなかったのであろう。嫌われて当然の哀れな男である。今さら素で生きていると言っても誰も信じてくれないし、素のままの自分が人に好かれるものとも思えない。まあ、これで良いのである。素のわたしを理解し、大切にしてくれる世界でただひとりの人と暮らしていられるのだから。