成れの果て

一月二十三日(月)晴
最近つらつら思うのは、自分の人生が結局スカだったということである。死ぬ前に人生を振り返った時に後悔しか感じないであろう、失意と挫折の連続だったように思う。何ひとつ成し遂げられなかったし、何ほどのことも残せなかった。ただ、それもこれも自業自得、すべては自分のせいである。能力もなかったが、努力も真面目さも、そして何より他者に対する思いやりや配慮が欠けていたことが原因なのだろう。或いは、自分が何ごとかを成し得るものと自らを見誤ったことが最大の敗因なのかも知れない。とは言え、こんな惨めな状況に甘んじていることの怒りに震え、湧き上がる闘志で立ち上がる気力もすっかり失せ、ただただこうして凡凡たる毎日を送ることに苛立つこともなくなってみると、時折こうして歯軋りをすることさえも、何だかわざとらしい行為のように思われて来て、こんな述懐が気恥ずかしく感じられるのも確かである。これから先、残された人生で自分が出来得ることを考えると侘しい気分になるのだが、さりとて早逝して惜しまれる器でなかったことを思えば、おめおめと老いぼれて行くのも自分らしい生きザマではあるのだろう。
最近はすっかり物欲もなくなり、酒を飲みに行くことも殆どなくなったので小遣いが余るようになった。本は買っているが、読める量は高が知れているし、読みたい本は古本なので月に一万もあれば足りる。小銭には事欠かないし、柄にもなくコツコツ貯金はしているが、50歳になるまで貯金ゼロだったツケは大きく、悲しいくらいの少額の資産しかない。従って、都内に近い、もっと広く自分の好みに合う住居に住むのに必要な金額は、どうひっくりがえっても出来そうにない。同居している女性はそれが不満のようで、いつもそのことで諍いになる。都内から遠く、辺鄙で活気がなく老人の多い今の場所が心底嫌いらしい。それなら別れてくれればこちらとしては願ったりなのだが、それは嫌だと言う。その人の理想は二子玉川だそうで、私はそんなところには死んでも住みたくない。所詮趣味も感覚も何もかもが合わないのである。とは言えそれも、何でよりによってこんな相手を...という、結婚あるあるの凡庸な一例に過ぎない。従って凡庸に、じっと我慢して生きて行くより他ないのである。
そうかと言って、他の女性に目が行くかというと、そんなことは全くなくなってしまった。魅力的な女性というものに、とんと出会わなくなってしまったし、好きだと思う女性もいない。幻想も妄想も枯渇し、心は毛羽立ったままである。周りにいる若くて可愛い女の子たちも、可愛いとは思うが、余りの無知、知性の欠如に気づいてしまうと、もはや話をするのも億劫になる。知的に魅力的な女性はおばさんばかりだし、可愛い娘たちは無知か品がない。まさか自分が女性に対する興味を失うとは思ってもみなかったが、そのまさかが現実のものとなったのである。そして、同様に性的な事柄、すなわちエロスに関わることやものに対する興味もなくなり、枯れるということの意味を少しずつ理解できるようになった。私の場合、枯れて魅力の出るタイプではないし、仮に魅力が出たとしてももてても仕方がないのである。かくして、私の人間嫌いはますますま嵩じて行くことになる。
そのせいか最近、人と会って話したりすると腋汗がひどいのである。更年期ということもあるのだろうが、それ以上に、とにかく人と話すのが緊張を強いるのだろうと思う。人前で話すこと自体は苦手ではないのに、人と話すのが嫌いなのである、特に仕事関係では。昔から、他人というのは苦手だったが、こんなにアポクリン汗腺からの汗が出ることはなかった。特に本社に移ってから、完全アウェイの中で顕著になった。汗の量だけでなく匂いも強い。それも加齢臭とは別の動物臭さで、自分でも辟易する。コロンの使用量が増える所以である。昔は汗をかかないことがいい男の条件などと吹聴して、実際汗をかきにくい体質だったのだが、変われば変わるものである。こういうのを成れの果てと言うのだろう。今さら遅いのだが、あまり偉そうなことは言わない方がいいという教訓である。