嘗ての書き捨て

以下は、ずっと前に書いたままこの日乘にあげなかったものである。くだらない読み物だが一応あまりに間の空いてしまった責めを塞ぐ思いで載せる。ぼちぼち再開していきたい。ちなみに下記にある年史の校正は昨週に終えたばかりである。

 

枯れた、厭きた、草臥れた

 齢(よわい)数えで六十となり、流石に余も枯れた。若く美しい女性を見かけても何の情欲も動くことがない。そして、今となって改めて女性や性に執着してきた余の人生の大半を振り返ってみると、どうしてそんなことをつづけてきたのか不思議でもあり、異性に魅力を感じていたことさえ理解の出来ぬことである。その執着のエネルギーを仕事やほかのことに費やしていれば、今ほど落魄した日々を送らずにすんだのかもしれないとも思いかけるが、いやいや、結果としては同じだろうという気がしている。ギラギラしていると言われつづけた四十代までを経て、五十代の約十年をかけて徐々に色気やあぶら気が抜けてきたわけだが、それはそれで味気ないもので、女性に魅力を感じなくなるのは、どこか世界が白黒になったような印象がある。今となっては若い女性を見かけるのは電車に乗るときくらいのことになったが、最近は皆マスクをしていて顔貌がきれいなのか不細工なのかもわからないので余計なのかもしれない。それでも、高校生のちょっとスタイルのいい短めのスカートから伸びる細すぎない脚は目で追う。若々しさの精気のようなものを感じとれるからである。それと夏場になって二十代くらいの色白で肌のきれいな女性がノースリーブの服などを着ていると、すべすべとしたなめらかな肩から腕にかけての肌を目で愛撫するのは今も変わらない。清々しい触覚の記憶が呼び覚まされ、若い女性の存在そのものがすばらしいと感じるのである。そこにそれ以上の情欲の動きはなく、余はこころの中でかさかさと微笑むのみである。

 枯れた自分を振り返りながら改めて呆れるのは自分の飽きっぽさである。何かが好きになるとすぐに夢中になるが、ある時ぱたっと自分でも出所のわからない音がして、興味を失うどころか嫌いになることも多い。日本酒がそれであり、ワインが好きになって以来ほとんど飲んでいないし、たまに飲んでも少しも美味いと思えなくなっているのである。そのワインにも早くも厭きて来ていて、今は白州のハイボールばかり飲んでいる。いろいろ買いそろえたワイングラスの用はなくなり、ワインセラーも買う気が失せている。ウィスキーというのはワインに比べると安いものだと思う。たしかに、白州はふだん余が飲んでいたクラスのワインの2本分くらいするが、一日ハイボール2~3杯なら10日くらい持つのではないか。ワインは2~3日のうちに空くから、それよりずっと安上がりである。それにウィスキーの品質ははずれがない。ワインはばらつきがあるから面白いのかもしれないが、ウィスキーには絶対の安心感があり、そのうえ食べ物との相性の幅が広いのである。ワインを飲むのはステーキやパスタ、あるいは生牡蠣やカルパッチョなどの時だけで、それ以外は薄めのハイボールなら何でも合う。すき焼きにはぴったりだし和食もたいていいける。と言いながら、いずれ厭きるだろうとは思っている。実際、酒そのものに飽きて断酒をしていた期間も計6年ほどあるくらいなのである。

 それにしても、定年退職を間近に控え、すっかり草臥れたという感が強い。草臥れ果てたとまでは言わないが、気力は衰え野心も夢も希望もない日々である。年史の仕事も大詰めを迎え、頭の中は校正とカウントダウンのはじまったスケジュール通りに進行させることで一杯となり、ほかのことをしたり考えたりする余裕がなくなっている。頭の中の貯水池が満杯で、なるべく動かさずに溢れ出したり漏れ出すのを防ぎたいという思いが強く、社史以外のことが考えられなくなっているのである。そのため、自分のための読み書きがすべて止まっていて、本も読めない状態である。本を読んで新しい知識が入ったり新たな刺激を受けると、池の水が溢れそうで怖いのだ。まあ、あと一ヶ月くらいはこの状態がつづくのだろう。一生つづくわけではないのだが、土日も家で校正をやらねば追いつかず、けっこう疲れる。暑くもないがすっきりと晴れることのないこのところの天候もさえず、コロナで外出や旅行もしにくいから、家に籠って仕事をするにはちょうどいいのではあるが、世の中の状況と同じく出口がいまだ見えない感じはある。

 そうした中で仕事以外の時間はつい内向的になって、過去百年を振り返るのと同じ視線で自分の六十年を顧みると、自分の歩んできた姿というものがもうこれ以上ないと思えるほどに恥ずかしさと悔恨とともに思い返されて、あれだけ生意気で無知でどうしようもない若造がよくもまあ、この世の中を何とか渡って来れたものだと妙な感心までしてしまいそうなのである。悔悟と自虐の自分の人生をそろそろきちんと振り返って、残りの人生の中で少しでもいいからそのときどきの負債や罪悪の罪滅ぼしをしたいとも思うのだが、それさえも叶わぬ高望みとしか思えない。