ものの数にも入らない

  こちらでは親しく接して貰っていると思っているが、要するにその人にとって自分がものの数に入っていないことがわかって寂しくなることがある。ある写真家の写真を江戸絵画と組んで見せるという試みがあって、これを見た人が感動してこの試みを多くの人に知らせようと動いて、この試みを発案した江戸絵画のコレクターとの対談のイベントを催した。わたしはそれらの展覧会にも足を運び、写真家ともまたイベントを企画した人とも、ついこの数週間のうちに件の作品について話をしたばかりである。それなのに、このイベントのことは一度もわたしの耳に入らなかった。たまたま、ネットの情報でこのことを知った時には参加締切を過ぎていたのである。慌ててこのイベントを取り仕切る、これまた旧知の人にダメもとでメールをしたが返事もなかった。その人はわたしが写真家とも企画をした人とも知己があることを知っており、その上でその作品についてほんの一週間前に話をしたばかりである。是非ともこの対談を聞きたかったが、結局行けずに終わった。
 わたしもこの一連の作品の素晴らしさには驚嘆していたし、今後の展開によってより多くの人の目に触れ、美術界を動かすほどの衝撃を与えるようになればすばらしいことだと思っていた。そのために自分に何かが出来るのではないにしても、応援したいと思っていたのである。確かに、その目的を考えれば、わたしなどものの数には入らないのであろう。
 それと最近もうひとつ、会っても不快な思いをする人と会うことがいかに時間の無駄であるかを痛感する出来事があった。そのことを書くこと自体が時間の無駄なのだが、ことのついでに書いてしまおう。もとの職場のOB連や、彼らを知る古手の現役同僚の忘年会での話である。一年ぶりではあるし、近況を話し合うなど和気藹々に進んでいた中で、突如参加者中の最年長で所長まで務めたある人が、俺が役員になれなかったのはお前のせいだ、などと言い出したのである。役員になれなかったことにいまだに恋々としていることに呆れもし、驚きもするが、その上それをその場にいる人のせいにする神経は想像を絶する。しかし、それだけではなかった。話題が進んで、他社に転職したある男のことに話が及ぶと、その元所長は、「あいつは優秀だった。それに比べてお前はどうしようもなかった」とわたしを指差したのである。調香師として数年しか在籍せず、競合他社に移ったものの今は営業をしているその男を優秀と評するのは、まあご自由にであるが、調香師として今の会社で長年働いて来たわたしを、その男と比べてどうしようもないと呼ばれて面白かろう筈もない。しかも、優秀と言われたその男を、わたしは会社に入って以来出会った人の中で最も信頼のおけない嫌な奴だと思っているから余計である。別に誉めて欲しい訳ではないし、誉められるようなことを成し遂げていないことは自分でも分かっている。しかし、その男と比べられて問題外のように言われては不愉快以外のなにものでもない。それで俄かに、若いころこの所長の下で何度もモチベーションを著しく失うようなことを言われて来たことを苦々しく思い出した。その瞬間、この集まりは時間の無駄以外のなにものでもないから、この元所長が出てくる限りわたしは二度と出席しないことに決めた。その人をのぞけば会いたい人も少なくないが、その人とは二度と会いたくないのだからやむを得ない。
 自分の存在が、彼らにとって無意味でちっぽけなものであることを改めて知ることは、やはりこころ寂しく悲しいものである。かくしてわたしの人嫌いは進み、会いたいと思う人も減っていく。思春期と同じように、本だけが友達の時代に戻っていくのであろう。