石油・ガソリン・オクタン価

六月十八日(月)陰後雨
山本一生著『水を石油に変える人』読了。本多維富という詐欺師を中心に、山本五十六以下の海軍の蒙昧な軍人たちの姿や、そうした科学詐欺の出現した時代背景を追ったノンフィクションで、なかなか面白くてあっという間に読み終えてしまった。海軍内の人々や、学者たち、周囲の産業人や政治家、ごろつきのような人たちまで素性や経歴がよく調べてあるので参考になった。
このところ戦前日本の石油・ガソリン関係の本をまとめて読んでいる。『日米開戦と人造石油』(岩間敏著)を読み終え、協和発酵の社史を読み、別に『ガソリンの時代』という本を読んでいる。また、郷土史家の書いた『燃料廠の総力戦』という本も読んでいる。『日本の化学技術』という本も、一部人造石油や揮発油産業のことが書いてあって参考になった。
持たざる国の悲喜劇とも言えるが、よく言われているように、太平洋戦争は石油で始まり石油で終わった戦争である。アメリカの対日禁輸措置により、石油がジリ貧になるから戦争を始めるという非合理性に加え、戦備や物資に対する予想や計画の数字の甘さや数字を出す際の根拠の適当さを知れば知るほど、開戦が狂気の沙汰であったことがよく分かる。陸軍の目の血走った侵略性と残虐性は勿論断罪すべきであるが、海軍の無見識と無定見も相当なもので、これが自分の国の実態だったと知って、体から力が抜けてへなへなと座り込んでしまいそうだ。
人造石油、すなわち石炭液化計画は海軍が自ら開発した技術に固執したこともあり、またドイツで工業化された方法の詳細情報が得られなかったこともあり、遅々として開発が進まず、やっと目途がついたところで、今度は海軍の方針変換で違うもの(メタノール)を作らされるはめになる。満州での油田開発では、もう一山向こうまで試掘していれば巨大な油田が発見出来たのに見損なう。オクタン価を高めるためのイソオクタン製造計画も、やっと設備が稼働しはじめたと思ったら、軍の方針変換でロケット燃料の製造に切り換えさせられる…。イソオクタンの中間体としてのブタノール製造にしてもイモを発酵させて作り、また台湾のカーバイドから作る計画もあったが、そもそも制海権を失って日本から機械を運べずに頓挫する。それはインドネシアに確保した筈の油田からの石油も同様で、石油を積んだ船が軒並み沈没させられて日本に来ないという有様。そして戦争末期には、松根油、すなわち松の根っこからガソリンを作ろうという竹槍戦術に等しい哀れな試みまで…。ことを石油や燃料に関することだけに限っても、戦前の日本の技術力の低さと見通しの甘さ、合理的思考の欠如と、単純な間違いを指摘できない精神論至上主義や硬直した組織などが、よく理解できる。当時の石油やガソリンに関する逸話は、まったく情けない話のオンパレードで、当時の状況を知れば知るほど、アメリカと戦争を始めた日本および日本人の愚かさに呆れかえるしかない。
そういうことを前提にすれば、この本が明らかにした、水からガソリンを作り出せると言い出した詐欺師に海軍の上層部がまんまと騙されるという話も、とりわけ驚くほどのことはないようにも思われて来るが、それにしてもとんでもない顛末である。窮すれば鈍するということもあろうが、国家神道と皇道思想に染まった日本人が如何に非合理的な存在であったかを改めて考えさせられた。企業家や産業人を含め、騙された人たちが敬神家だったり情に厚いとされた人たちだったことも特徴的だ。要するに右翼は騙されやすい、いや、騙されていることに気づかないからこそ右翼たり得るのである。自分で言うのも何だが、これはけだし至言であろう。
もちろん、科学がすべて正しいとは思わない。むしろ、科学を妄信するのは合理的な精神とは言えない。ましてや、帝大教授の言うことを無批判に信じ込んだり、権威者の言うことを鵜呑みにしたりするのは、科学への信頼というより知性の腐敗としか言いようがない。科学が解明した、現在までの知見をもとに自分で合理的に考えることが重要であり、それは科学的知識を権威視して考えることを止める態度とは全く別のものであろう。わたしは最近ますます、合理主義あるいは合理的な思考の大切さを痛感するようになった。精神論や霊感や、神や霊魂の存在など、到底まともに考える価値のないもののように思えて来た。一種の唯物論的人間中心主義かも知れないが、人間および自分の限界を知った上で、自分の脳や思考の合理性の中でしかものごとを判断しないということだ。ただし、世の中で起こる事や自分の身に降りかかって来ることは不合理なことが大半であることもよく分かっている。合理性は目的ではない。生き抜くための手段なのである。近代産業世界に必須の手段であるエネルギー源たる石油を得るのに、思考の手段としての合理性を欠いてはどうにもならない。神頼みは通用しない。われわれの住む環境は、好むと好まざるとを問わず、資本主義の合理性によって成り立っているのである。貿易もエネルギーも、インターネットも車や飛行機のない世界であれば、神や信仰の不合理性の浮かぶ瀬もあったのだろう。
この後、燃料廠と京都帝大、そして台湾の関係についてより詳しく調べていくつもりである。