雑感

八月十三日(日)陰
この時期、お盆と呼ばれ東京の人口が減る。つくづく、東京は田舎者の集合場所なのだと思う。東京生まれにとってお盆は七月なので、八月中旬に親族で集まったり、田舎に帰って同窓生と会ったりといったことはしたことがない。親の実家も都内だったので、「田舎」という感覚がなかったこともある。
高校野球を見ていて、応援の音楽が長いことずっと似たような曲ばかりなので、一瞬時代の感覚を失う。ちょっと前にあまちゃんのテーマ曲が出たくらいで、ほとんどが固定化した楽曲ばかりで、ヒットやチャンスの時の音楽は高野連がルール化して指導しているのではないかと思うくらい決まったものしか流れない。高校生の野球大会という意味で観戦するのは好きだが、高校野球という制度や伝統墨守保守主義を歓迎している訳ではなく、むしろその暗部や矛盾に対しては批判的なので、こういう風潮はどうかと思う。むしろ、まったく鳴り物の応援をしないクールな学校があってもいいのではないかと思う。
今日は天理戦を観た。相手の大垣日大の恐そうな監督を見て、とにかく天理を応援したくなった。練習で厳しく怖いのは仕方がないにしても、試合であんな恐い顔をしているのはどうかと思う。ミスした選手を睨みつけるような目で見て、選手も怯えた表情をするから余計である。誰のための野球なのかと思ってしまう。天理を応援するというより、大垣日大負けろ、と思って見ていた。日大は東海大とならんで私が嫌いな学校系列であるし。
それにしても不細工な女子がチアリーダーになって満面の笑みで頑張っている姿ほど痛々しいものはない。笑顔で不細工さが強調されると、若さはせめてもの言い訳に過ぎなくなる。自分の高校時代というのは何も楽しい事のない逼塞した時期だっただけに、高校野球の、特にNえっちKが作り上げようと必死になっている、明るく楽しい高校生活像というものが、わざとらしいたてまえにしか思えないのである。何が起こるかわからない、野球というゲームの面白さを堪能しているのであって、手垢にまみれた青春神話の単純再生産を喜んでいる訳ではない。明るく元気で素直で親孝行、皆と仲良く常に感謝の気持ちを忘れず、しかも甲子園で大活躍、なんて嘘くさくて嫌いである。
高校野球のユニフォームや学校名の入れ方は様々な種類があって面白いと思うが、あの全校同じの後付けの背番号はユニフォームのデザインの統一感を損なって良くない。高野連の介入煩(うるさ)し、の一例である。
ユニフォームと言えば、選手の個性によって似合う似合わないはあるものだ。ダルビッシュドジャースは意外と似合っていたが、松井のアスレチックスは全く似合っていなかった。見慣れということもあるかも知れないが、何でも似合う選手と云うのはその分キャラクターが薄いのかも知れない。早実の清宮君など、プロに行くとして讀賣のユニフォームだけは着て欲しくないものである。絶対似合わない。それでも巨人入りしたら、その時点で嫌いになってしまう。中日のユニフォームも合わない気がする。楽天か西武、ソフトバンクがいい。とにかく投手のレベルの高いパリーグに行くことが望ましい。メジャーを視野に入れているなら余計である。メジャーで成功しているのはほとんどがパリーグ出身者だからである。