京都嫌ひ

十月八日(日)晴
大徳寺曝凉展に行く。牧谿水墨画、大燈國師の書など見るべきものあり。
京都はとにかく人が多くて住民觀光客を問はず傍若無人の振る舞ひが東京にくらべても多く、街を歩いてゐても何だか落ち着かない。ホテルは馬鹿馬鹿しい程高くなり、どこぞの國の觀光客の土産物を買ふ景気の良さに店舗の賣り子も欲深くなるのか、買はない日本人に露骨に嫌な顔をする者もあつて、段々嫌氣が差して來た。極めつけは今囘偶々立ち寄つた夷川通りの喫茶店で、こだはりの珈琲だか何だか知らないが自己満足のぬるくて糞不味い珈琲を飲まされた挙句横柄で一人よがりの講釈を聞かされ辟易した。家内が誉めるつもりで丁寧に淹れてゐるのですねと聲を掛けたら、家庭の珈琲と比べて貰つては困る、寿司屋に來て手巻き寿司より美味しいと言はれて嬉しいと思ひますかと來た。珈琲専門と言ひながらウヰスキーも置いてある、地元のゴロつきがやつてゐる店である。うるさい店主のゐる面倒くささうな拉麺店になどは絶對に入らない自分が、そんな店に入つてしまつたのが惡いと言へばその通りだが、それにしても値段は高いし店主の偉さうな割に胃がむかつくほどまづい珈琲なのだから腹立たしい。
まあ、京都はだいたいの見るべき處は行つてしまつたし、そろそろ飽きて來たといふのもあるが、獨善的で金儲け主義、笑顔の影に般若の顔を隠してゐる人たちも多く、何だか二度と行きたくなくなつてしまつた。あんな不愉快な店主の店でも商賣が成り立つのはそれと知らずに入る觀光客の多い京都だからであらうが、その恩恵の上に胡坐をかいてゐる者も多いと思へば白けるといふか、腹立たしくなつて來る。或る不愉快な出來事で訪れた其の都市全體が嫌ひになることはよくあることであらう。此の二十數年といふものかなりの頻度で京都に出掛けてゐたが、これからは余程の用事でもない限り行くことはないであらう。また京都の何処かの店に入つてあんな嫌な思ひをするかも知れぬと思へば、行きたくもなくなるといふものである。觀光客が一人や二人減っても京都にしてみれば屁でもないのだろうが、余にしてみれば好きだつた場所がひとつ減ることに寂しさはある。とは言へ日本國内にも行きたい處はたくさんあるし、知つてはゐたものの京都人の愛想の良さの裏にある尊大さや排他的な心性に気づいてしまふと、勝手にやつてゐろといふ氣になる。京都出身や京都在住の知人も少なくはなく、一例を以て全てを斷ずる愚は承知しながらも、結局好き嫌ひなんて理屈のあるものではないから、嫌ひになつてしまふとそれまで良いと思つてゐた面がすべて惡どいものに感じられてしまふのだから致し方ない。日本の文化を一身に背負つて來たやうな自負はご立派だが、政治家と接してゐるうちに自分が偉くなつた氣になる政治部の記者ではあるまいし、別にあんたがやつた事ではないでせうと思ふ。もともと、京都の土地や人々には自分の氣質とは相容れないものが多かつた氣もしてゐる。余は愛想笑ひも腹芸も出來ず氣分や機嫌が顔に出てしまふ方だから、多くの京都人に鼻で笑はれてゐたのだらうと思へば今さらながらに臍を嚙む思ひである。今週末には大好きなパリに行くので、此の何とも嫌な氣分の晴れることを期待してゐる。パリには良いところも惡いところもあるし、不愉快な事が皆無だつた訳ではないのに、決して京都のやうに嫌ひになることがないのは、都市としての格の違ひなのか、單に自分との相性なのであらうか。最初から嫌ひなものより、好きだったものが嫌ひになつた場合の方が嫌惡感は一層強い。余にとつては巨人と京都がその例になつたやうである。