1%の巨悪と、「平等」という観念の終焉

十一月十三日(月)陰後雨
昨日、パラダイス文書に関するテレビ番組を見た。余りの卑劣さに、政治思想の対立とか経済に起因する格差とか、南北問題といった対立や、いや地球温暖化までもが、矮小化されるというか、鼻で笑われているような屈辱と無力感を覚えた。一部の富裕層が富を独占し、何ら良心の呵責なく不当にそれを増やし続けている現実に、全身の力が抜けて行くような思いがある。世界の1%の人々がこの世の富の半分を独占し、払うべき税金を逃れ、そのツケを貧しい人々に押し付けている。そして、そういう連中に限って、権力を握って表面的には国民のため、世界のために働いているような顔をしているのだ。ハミルトンが破滅すればいいと思うし、ナイキやアップルの不買運動を起こしたいとは思う。しかし、それすらより巨大な悪のシステムの前では何のダメージにもならず、少しの損をすることのない連中もいるのだと思えば、もはや温暖化に取り組んだり、貧困の問題を考えたりすることが、虚しいと言うよりどこか滑稽なことにさえ思えてくる。社会的不正とか極端な思想とか不道徳とか犯罪とか猟奇的事件とか、その他すべての悪も不平等も、いや北朝鮮の核開発ですら、この富める者たちの脱税行為に比べれば、小さなこと、人間的なことに思える程に、私は衝撃を受けた。資本主義とかイデオロギーとか覇権とか軍事力とか、この世の混乱を引き起こす様々な事柄に比しても、この脱税のシステムとそれを平気で利用する人間たちの心性を理解・容認することは出来ないし、それでいてそれを批判する言葉も理論も我々は持ち得ていないような無力感ばかりを感じてしまう。平等は人類最大の幻想だったのである。