国家の犯罪

十一月十二日(日)晴
昨日、松下竜一著『怒りていう、逃亡には非ず』読了。平岡正明の『戦後事件ファイル』を読んで泉水博の名前とこの本の存在をはじめて知り、鈴木邦夫のブログを読んで大筋をつかんでさらに興味を持ち、アマゾン経由で古本を註文して取り寄せたものである。1993年の出版。一気に読み終えた。泉水博、旭川刑務所に服役中の1977年、ダッカ日航機ハイジャック事件のさい、日本赤軍から指名をうけて超法規措置によって釈放されて日本赤軍に合流した人物である。それまでいかなる意味においても赤軍との関係はなく、刑務所における泉水の義挙を知っていた赤軍の「指名」であった。数奇と言えば数奇、不運と言えば不運な人である。手を染めていない殺人事件で無期懲役。知り合いと一緒に強盗目的で小切手の支払いを名目に会社重役宅に入った際、その知り合いが事前の計画と異なり重役夫人を殺してしまい、泉水は止めたが結局ふたりとも捕まる。しかも主犯が自殺してしまったため主犯の供述通り共犯に仕立て上げられて有罪判決となる。それでも模範囚となって仮釈放も間近になった1975年に、千葉刑務所で重病になった仲間を病院に移して貰おうと掛け合うも拒絶されたため、看守を人質に上層部に訴え出ようとして失敗。看守にけが人も出て仮釈放もなくなって、この事件で刑期が加わってしまう。この義挙を世間に知らしめたのが刑務所内で泉水の知己を得た野村秋介であり、そのことを日本赤軍が知ってハイジャックの人質との交換で釈放を要求したのである。人質を救うためならと泉水はこの求めに応じてダッカ赤軍に身を投じた。その後1988年にフィリピンで逮捕され日本に移送される。そして、丸岡修の旅券偽造に関わったとして有罪になる一方、ダッカに移る以前の無期懲役も有効との司法判断で収監され、今も服役中であるという。
私は日本赤軍を支持しないしテロも容認しない。しかし、泉水博に対して日本という国家がして来た犯罪行為は断じて許すことが出来ない。まず、殺人罪にした裁判が不当であるし、千葉刑務所での暴動の裁判も一方的かつ独善的である。しかも判決文において泉水の心情を著しく曲解してほとんど侮辱的である。とは言え、ここまでは百歩譲って司法の不全と怠慢による限りなく冤罪に近いミスであり、よくあってはならないものの、悲しい事によく聞く話ではある。問題は超法規措置の際の扱いや、日本に送還してからの処遇である。私自身もその詳細をはじめて知って衝撃と怒りを感じたものなので、じっくり説明することにしよう。
まず、超法規措置の時点である。ハイジャック犯が釈放を要求したリストに泉水の名があることが分かった後、服役中の旭川刑務所において、所長と管理部長に呼び出された泉水は事情を説明された後、何と釈放に応じるか否かを自分の意志で決めるように求められたというのだ。どこのどういう判断かは不明ながら、これは人質の命の責任を泉水に押しつけるとしか言いようのない、あまりにも常軌を逸した話である。国は泉水と赤軍に何のつながりもないことは理解していたはずだ。一方の泉水は、ハイジャック事件の発生は知っていたが、身代金の要求を含む事件の詳細を知る立場には当然なく、また他の釈放を求められた政治犯たちの動向を知ることもなく、自分が釈放されなければ人質が殺される可能性が高いという曖昧な情報をもとに決断を迫られたのである。これは極めて酷な話ではないか。釈放に応じたとしても人質が無事解放されるという保証はなく、拒否したとしても人質が解放されないと決まった訳でもない中で、突然降って湧いた話に即断しろというのである。本来、受けるか拒絶するかは犯人から要求をつきつけられた日本政府がその責任のもとに判断するべきものである。逆に言えば、「国は法に定めのない[超法規措置のための]釈放手続きはできないのであるから、被告人に意思確認をする必要もなかった」のであるし、政府の判断を越えて無期懲役受刑者である泉水が釈放出国希望を出すことなどそもそもできなかったはずのものだからである。結局、犯人の要求に従うことで人質が助かるのならと受けることとし、犯人を説得する覚悟まで固める。ところが、旭川から東京に移されると、どこの役所のどんな役職かもわからぬ連中から翻意するよう嫌がらせや脅迫、侮辱のことばを浴びせかけられる。本書から引用する。「それほどまでして、娑婆に出たいのかね」「何の能力もない君は、鉄砲を持たされて最前線に行かされ、殺されるのが落ちだろう。君は消耗品として扱われるだけだよ」「だいたい貴様は何様のつもりなんだ」等々…。釈放要求をこれ幸いに娑婆に出たい一心の受諾と頭から決めてかかっているのである。鈴木邦夫の言う「義の人」泉水の気持ち(この気持ちを右翼なら「赤心」とか「義侠」ということばを使うのかも知れないが私は使わない)を少しも汲もうとはしない。犯罪者に対する国や司法、権力者の偏見や思いこみ、決めつけ、無理解、無慈悲は驚くばかりである。
そして、フィリピンでの逮捕、強制連行、収監といった一連の動きと、その後の有罪判決の無茶苦茶さである。確かに、結果的に泉水は日本赤軍に加わることにはなった。しかし、泉水はその後日本で何ら犯罪を犯していない。日本に帰っていないのだから当然である。さらに、泉水の弁護士は、泉水が釈放後にハイジャック犯と行動をともにし彼らと犯罪行為をなすことは予想されることであるから、釈放はその容認を含み従って泉水に対する国家刑罰権を放棄したものとする。何故なら「日本国が被告人をハイジャック犯らに放り出すことさえしていなければ絶対に発生していなかった」ことばかりだからである。泉水の行ったことをテロと呼ぶのであれば、日本国こそ「テロ幇助」によって裁かれるべきものなのである。それなのに、旅券偽造幇助という容疑により海外で逮捕した挙句に、もとの無期懲役をそのまま当てはめて刑務所にぶちこんだのだ。この処置に対する泉水の弁護団の主張は極めて真っ当でありその論理も文章も、くだらない犯罪もののドラマに出て来る弁護士の屁理屈とはくらべものにならない程立派で格調高い。そもそも何故被告がこの裁判を受けなくてはならないかを疑うことから始める。すなわち、超法規措置の具体的措置の内容として、泉水が旅券の発行のないまま政府の決定によって国外に移住せしめたのであり、海外において旅券法違反容疑で逮捕・強制連行して裁くことは国家統治権の範囲を逸脱しているのではないかと疑問を投げかけるのだ。
国の無法行為はさらに続く。自分の都合で国外に放り出した無期懲役囚を、理屈の通らない旅券関連の容疑で国内に引き戻し、さらに元の無期懲役として監獄にぶちこんだ上に、釈放前に泉水が得ていた囚人の等級が仮釈放に近い一等級だったにも拘らず、最下等の四級に落したのである。超法規措置をやらされた国や司法の八つ当たり的腹いせとしか思えない。泉水の弁護士は次のように裁判所の懈怠を批難している。
「日本政府が違法行為[超法規措置を指す(ブログ筆者注)]をなしたにも拘わらず、違法行為にとどまり何らの効果も発生しないのであれば、政府は超法規措置の名の下に何をしても構わないことになり、法律はその存在意義を失い、法治国家は消滅する。国家が国民の権利を侵害しないよう憲法以下の法律が規定され、且つ、人権擁護の最後の砦として司法権の独立が保障され、裁判所に違法審査権まで認められている以上、裁判所が国家の違法を容認することは許されないものである」
その通りだと思うが、その抽象的な表現を泉水の身に置き換えてみれば、痛い程その意味が理解できることと思う。しかし、泉水が味あわされた苦しみは国家政府によるものだけではなかった。マスコミによるインチキ記事による屈辱がさらに加わったのである。すなわち、赤軍合流後の泉水について、兵士としては失格で脱落して酒におぼれ、「やめたい」ともらしていたなどというまことしやかな報道が朝日新聞においてなされたのだという。これが全くのデタラメであることは後に丸岡修によって明らかにされている。そもそも赤軍内の行状など外部の者が知る由もないはずのものであり、為にするインチキ報道には憎しみすら感じる。朝日新聞の腐敗は今に始まったことではないが、その存在価値は讀賣やサンケイよりはマシという一語に尽きる。その丸岡も、逮捕された時の報道が警察の公表したしたままの印象操作のためのものであったことを告発している。公務執行妨害での逮捕であることを正当づけるために、丸岡を挙動不審者にでっちあげたのである。無法を犯した国家が、そのもみ消しのために無法に無法を重ねている。それを手助けする大新聞。国家とテロの問題は、それはそれで確かに大きな問題であり、赤軍との関係やその一事件の中の超法規措置だけを問題にすべきではないのは理解しているつもりである。しかし、泉水博というひとりの人間に限って言えば、国家による犯罪の犠牲者であることは紛れもない事実であり、少なくとも無期懲役からの即時釈放をなすべきものではないだろうか。テロとの対決、法治国家としてのあるべき姿の追求は、その後でも出来る。泉水博は来年80歳になる。