拘らない

十二月二十四日(日)陰
「こだわりの×××」とか「×××にこだわった」という言い方が嫌いである。何かにこだわるということを良いことでもあるように思いなす風潮も嫌である。わたしは常々ものにこだわらずに生きたいと思っているので、人から「こだわってますね」などと言われると泣きたくなる。好き嫌いや趣味、美の基準はかなり強く持っているがそれはこだわりではない。こだわりたくないという思いにこだわっているという言い方は可能だが、そういう場合はこだわりではなく拘泥とか固執と言うべきである。そして正しいことば遣いをするのも「こだわり」だからではなくて、単に正しく美しい日本語を遣いたいからにすぎない。言ってみれば当たり前のことである。当たり前のことをないがしろにして世上の軽薄な風潮に流されているから、当たり前の態度がこだわりに見えてしまうという情けない話になるのである。
「食」についてもそれは同じで、わたしは決してこだわっているつもりはない。ただ当たり前のものを食べたいと思っているだけである。ところがそれをしようとするとそれなりの努力がいる。塩も醤油も味噌も、その辺のスーパーには置いていないから大抵は取り寄せることになる。送賃もかかるし安売りもしていないから当然割高になる。本来ならまともな原料と製法、正当な利潤によって、ごく普通の、真っ当な値段なのだが、スーパーに置いてあるものが安すぎるので高く感じるということはある。豆腐や納豆、卵といったものも、うちで買っているのはスーパーの安売りよりは確かに高い。しかし、安くするために素材の質を落としコストダウンを強いられ、そして生産者よりも小売りのスーパーが儲ける仕組み自体がおかしいと思うし、安すぎるものの安全性や品質をわたしは信用できないのである。
野菜は特にそれが言える。わたしのところでは有機野菜を食べているが、それはこだわっているからではなく、その方が美味しいからである。おいしいといっても高級食材ではないから、本来その野菜が持っている味がきちんとするという意味に過ぎない。すなわち、当たり前のことを求めているに過ぎない。それがスーパーの安い野菜だと味がしないか、あるいはどこかわざとらしい味がしてどうにも嫌なのである。もっとも、うちで買っている有機野菜は決して高いものではない。生産者と販売店が密接に連携している上に、特定の固定客が必ず購入しているせいで生産者の利益が確保されるため、変動の激しいスーパーの値段より安くなることもある。
とは言え、野菜以外のものも当たり前の食事をしようとすると、やはり食材費は割高になるのも事実である。それでも、歳とともに食べる量は減っているし、高級食材を求めるわけではないから、まあ何とかなるのである。わたしのところは決して裕福ではないが、ありがたいことに貧困とは言えないくらいの生活はできている。というか、新聞などで知る世間の事情から比べれば、それなりの給与を貰っていると思われるのに、それでいて余裕のある生活を送っている実感はないという方が正直な感想である。富裕層は高くても美味しいものを普通に食べられるだろうし、やや生活の苦しい世帯ではわたしのところのような食生活は難しいのかも知れない。デパ地下に代表される高級食材と、どこの国で採れたかわからぬような安売り食材という両極化のはざまで、わたしのところのようにごく普通の当たり前の食事をしようとすると、それなりに割高になって、外見的には「こだわっている」ようにしか見えなくなるというのが現実なのである。
わたしは決してグルメでも食通でも食いしん坊でもなく、むしろ昔から食べることに恥じらいと苦痛を感じて来た方である。今でこそ辛いものとニンニクが苦手なだけで好き嫌いはなくなったが、子どものころは食べられないものの方が多くて給食など地獄の時間以外のなにものでもなかった。食に対するストイシズムを持する方がクールだと思っていた時期もある。今でも外食はあまり好きではなく、美味しいものを一人でも食べに行くという気になったことはない。そんなわたしではあるが、家で当たり前の素材のごく普通の食事を続けるうちに、外で食べるものについても当たり前に作られているものとそうでないものの違いがわかるようになって来た。要するに素材本来の味がわかって来たということなのだろう。素材本来の味がしないものを料理すると、料理人は必ず工夫をする。いわゆる味つけだが、それがどうしても「わざとらしく」なってしまうのである。外に食べに行って「わざとらしい」と感じると、その店には二度と行かない。というより、人に連れられて行ったりたまたま知ったりした、わざとらしくない味の料理を出すことのわかっている店以外に入ることはきわめて少ない。そもそも外食に行く機会が少ないので、知っている店しか行かないからである。未知の、新しい店に入ることが少ないのである。それでいて、人と一緒に行く店はあまりこだわらない。人が選んだ店に文句をつけることは絶対にしたくない。この点は、こだわらないことにこだわりたい。自分の好き嫌いははっきりしているが、自分の味覚が万人に共通とも、万人より優れているとも思わないから、好みに合わなくても黙って食べればいいだけの話である。当たり前のものを食べたいだけで、美味しいものをことさらに食べたいと思っているわけではないからである。逆に言えば、本当は食べるものなどどうでもいいのだが、家で食べるものについては、まずいよりは旨い方がいいというだけの話なのである。ただ、そう言っては身もふたもなくなり、作ってくれる家人に悪いので、おいしいおいしいと言いながら食べている。本当にこだわりはないのである。