何も覚えていない

十一月六日(火)陰後雨
昔から記憶力の良い方ではなかったが、最近とみに自分が何も覚えていないことに驚き、心底がっかりしている。読んだ本の内容など三日と覚えていない。読んだことすら覚えていない。見た映画の筋や設定さえ、ほとんど思い出せない。見た記憶、良かったと思った記憶はあるのだが、どこをどう評価したのかもよくわからない。それだけではない、かつて自分が体験した、人生観や価値観を一変させるような大きな出来事さえ、子細はもちろん、どうしてそう思ったかの経緯も、衝撃とともに理解したと思った事柄もすっかり忘れている。例えば、私は21歳の時にこの世のすべては虚無であることを理解した。実感したと言ってもいい。その上で、昨日までと同じく普通に生きていくしかないし、虚無に達した上でそうしていくことが格好いいのだと自分を納得させた。ところが、その虚無の実態やそこに至る思考や認識のプロセスは一切忘れている。同様に40歳少し前くらいだと思うが、資本主義のカラクリがすっかり理解できたことがあった。現実に目にする、実際に起こっている現象や事象のすべてが、なるほどそういうことなのだなと完全に繋がりが見えて腑に落ちたのである。ところが今では何も思い出せず、幻想だったとしか思えない。あの洞察とすべてを見通せたという満足感は、所詮は錯覚か驕りだったのであろうか。
そんなこともあって、最近「速読」を始めた。斜め読みというか、目に飛び込んでくるキーワードだけを拾って、こんなことが書いてあるのだろうと類推しながら読むのである。もちろん、全く知らない分野の本ではこれは出来ないし、楽しむための読書ではこれをしない。ある程度知識のある分野の本を読む場合に限るのだが、やってみると結構これが面白い。新たな知識が得られることは少ないし、論理的な思考を要求する読解に至ることはないが、目にした単語や固有名詞を追いかけるだけでも、自分がかつて読んで忘れていたことが、単語間のスピードに紛れてふっと浮かんで来ては、背後にあるまとまった知識の塊を垣間見させてくれるような気がするのである。読んでもすぐ忘れるくらいなら、飛ばし読むことで忘れていたと思っていた自分の知識の断片が蘇ってくれることの方がはるかに喜ばしい。しかも、速読の方が時間は短いなりに、単位時間当たりの集中力ははるかに高いのである。つまり、速読の方が脳を酷使することで、ボケ防止になる可能性があるのである。じっくり読んでもすぐ忘れるくらいなら、こうした読み方もありだなと、最近つくづく思うようになった。集中力が、記憶よりも想起に対してよりよく働くことを今にして思い知ったと言い換えてもいい。これは大切なことだから忘れないように、慌ててここに記した次第である。