時間の無駄

十一月二十二日(木)陰
某マーケテイング協会の主催する研究会に行った。コピーライターの岡田某氏による、「うつくしい日本語を次世代に」と題された講演である。タイトルに惹かれたわけだが、これがまったくひどい代物だった。松岡正剛佐藤優の知的で濃密な話を聞く機会のあったすぐ後なので、どんな人の講演であれ薄っぺらに思えてしまうのは仕方がないかも知れないが、とにかく内容がお粗末なのである。同じように「ことば」について語るとして、松岡先生の深い含蓄と拡がりに比して、あまりにもレベルが低い。たとえば、万葉集の「あおによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今さかりなり」の歌の「にほふ」が嗅覚的な匂いではなく色彩=視覚を表わすものであるのを自分が発見したこととして自慢したのには、噴飯ものを通り越して唖然とした。さらに、一人称・二人称にふれて、君と僕という対語が、もととなる「君」主と「しもべ」ということばにおいて両極の立場になっていることの指摘はいいとして、女性の「僕」に相当する一人称は何かと思って探していて、最近明治期の小説か何かに文脈から女性の一人称ととれることばを見つけたと言い、それは「妾」であると白板に書いて「めかけ」と読んだのには椅子からずり落ちるかと思った。言うまでもなくそれは「わらわ」と読むべきものである。この程度の人が「日本語の番人」を自称しているのだから恐れ入る。うつくしい文章を書くための秘訣を六つ挙げていて、それ自体は間違いではないが、当たり前のことすぎて気が抜ける。こんなことを聞きに半休してやって来たのかと思うと、時間の無駄遣いをしたようで腹が立って来た。途中で帰ろうかとも思ったが、一番前に座っていたのでさすがにそれも出来ず。こんな文章を綴るのも時間の無駄を重ねることにしかならないのはわかっているが、何とも腹の虫がおさまらずに思わず書いた次第である。ただし、怒っているのは、タイトルにつられてこんな話を聞きに来た自分に対してであり、この内容でもタメになる人はいるのだろうから、呆れはしても岡田氏に対してではない。この協会のセミナーの一種に講師として出たことがあることから、無料で招待されているので、そもそも文句を言える立場ではない。
ちなみに、うつくしい日本語を書く秘訣は次の六つだそうである。

1. 間違いを書かない(文法・誤字)
2. 漢字、漢語、カタカナ語を多用しない
3. ワンセンテンスを極力短く
4. 助詞を大切にする
5. 表記にこだわる
6. ボキャブラリーを増やす

その通りだとは思う。基本的には自分もやっていることである。それを今さら自分の発見したことのように言われても笑うしかないのである。ただ、ひとつわかったことがある。わたしが今手掛けている「歴史」の叙述と、広告コピーとが、同じことばを用いながら、おそらく対極に位置するものだということである。コピーのような歴史を書いてはいけない、その戒めを得たことが、この日の唯一の収穫であった。