信じない

十一月二十五日(日)晴
その後佐藤優氏の著作は『自壊する帝国』『官僚の掟』と進んで、今は『甦るロシア帝国』を読んでいる。その間佐藤氏が獄中で読んで面白いと言った、ヘーゲルの『歴史哲学講義』の上巻を読み終えた。どれも面白いが、やはり読めば読むほど、氏のキリスト教の信仰を絶対的な前提とする思考法に違和感も覚えはじめた。そのぶれのなさとすべてを見る目の視点の揺るぎのなさは魅力的ではあったが、ここまで繰り返し言明されると、キリスト教を含めた一神教の神なるものを一切信じることのないわたしのような人間には、狂信者の一徹さにも似た薄気味悪さも感じるのである。特に、ヘーゲルが精神と弁証法を軸にして世界史を見る方法が、それはひとつの史観の在り方だと分かってはいても、余りに偏狭なものにわたしには思われるし、中国に関する理解を読めばわたしでもわかるような、ひとつの視点から眺めたときに起こり得る誤読や誤認が多いことから、佐藤氏の言説もすべてを信じてはいけないという気になって来た。その意味で佐藤氏がヘーゲルを面白いと思うのもよく理解できた。ぶれのない世界観を前提とした解釈こそが、世界を読み解くため、プーチンやトランプを理解するために必要であり、また最終的には国益や自分の身の安全につながるものだと言われればその通りなのかも知れないが、何となくどこかに独善論の匂いもするのである。単にブレブレというだけでなく、自分がずっと懐疑主義的にものを捉えてきたということもあるが、一方でブッダや仏教の教えに大きな影響を受けてもいるので、キリスト教者の言うことを心の奥底では絶対信じていないところもあるかも知れない。自然科学そのものを信じることはないが、自然科学者の明らかにしたことへのリスペクトにくらべ、キリスト教信者の言うことにはどうしても一定のブロックというか、信じきれないところが残る。言い換えれば、信じている人を信じない姿勢である。神学という学問の面白さや、それが提起する、他の学問体系にない視点や考え方を紹介してくれる分にはいいのだが、自分の信仰をもとにした記述になると、とたんにげんなりしてしまうのである。