地の揺れ

三時前地震発生。今までになき大きな揺れにて職場の棚の香料書類等乱れ落つ。階数は七階なれど通常の建物の十階以上の高さなればにや、揺れ方尋常ならず。一度納まりたる後上着をつけ鞄を持ち非常階段より地上に下りる。玄関前に全員集まり点呼。暫く様子を見るうち再び大揺れの起り、建物の揺れの甚だしきを見る。壁の継目の亀裂など明らか也。避難場所をより開けたところに移し、毛布配布さる。その間周囲の者の聞くラジオなどにより地震の情報を聞く。小一時間後再び職場に戻り片付けを始めるも余震が続き、必要な荷物を改めて鞄に詰めて下りる。鉄道不通の情報はあり、津波の危険もあれば到底東海道線の動くものとも思はざれば徒歩での帰宅を決意するも、会社は退社許可をなかなか出さず。明るいうちに少しでも先に進みたき気持ちを汲まず、万事対応のまずさを露呈する防災対策本部は正に政府のカリカチユアの如き無様さ也。嗤ふべし。
五時頃やつと上長の判断で帰宅する者は報告の上退社を許さる。既に宿の手配を済ませたる者もあるも、戸塚・保土ヶ谷くらゐまでの者は多く歩くか自転車にての帰宅を選ぶ。一旦駅まで行き情報収集せんとするも駅周辺の雑踏凄まじく、迷はず茅ヶ崎方面に国道一号を歩み始む。同行は余の他に四名。国道は大渋滞にて明らかに徒歩の方が進む。
茅ヶ崎の手前で海岸方面に向ふ二名と別れ残り三名にて茅ヶ崎を越へ途中から東海道線方面に進み辻堂の手前から藤沢まで線路脇の道を行く。藤沢駅の手前でもう一名は親戚の家に寄るとて別れ、もう一名も家が藤沢なれば駅にて袂を別つ。すでに八時過ぎてをり、ひとりになつた余はまず松屋にて夕食を取り、空腹を満たしてから再び出発。道が途中から線路脇を離れたため分からなくなり、対向者に大船に行くにはこの道で良いかを聞くと、此の先の橋を渡つて左だと言ひ、その通りにはバスも走つてゐると教へてくれる。その通りまで出るとバス停を見つける前にタクシーの空車が通りかかつたので拾ふ。情報をいろいろ聞く。幹線道路はどこもひどい渋滞だといふが、大船まではすいすいと走る。ただ、駅を過ぎて鎌倉街道に向ふ辺りで渋滞し始めたので、後は歩けると思ひ降りて再び歩き始める。一度バス二台が余を追ひ抜くがすぐに渋滞につかまつて余が抜き返す。見ると一台目は混んでゐるが二台目はガラガラでともに余の家の近くに行くバスである。時間がかかつても座つて行けるのなら其の方が良いと思ひ次の停留所で待つて二台目に乗る。交差点の右折に時間が掛かるも後はそれほどでもなく十時過ぎに無事帰宅。五時間以上掛かかつたことになる。健常な者でも、平塚から歩くとなるとやはり洋光台か東戸塚あたりまでがやつとだらう。それ以上だと仮眠を取るなどの必要も出るかも知れない。電車が止まつてゐることを把握した時点でもつと早くに帰すべきだつたのである。職場周辺に居住する者が責任者の中に多いせゐもあるのだらうが、さうした配慮をしなかつた責任はいずれおとし前をつけたいと思ふ。
それにしても今回思つたのは家族がゐないと気が楽なものだといふことだ。多くの人が倶に暮す家族の安否を気遣ひ連絡を試み、合流再会のために右往左往する。其れに引き換へ余などは心配することもないし、どうならうと自分ひとりのことだから気が楽である。其の事を同行の者にも話すと「でも家にゐてひとりで被災したら寂しいのではないか」と言はれた。余は「そんなことはない」と答へる。
「本当に寂しくないのか」とその人。余は思はず、「寂しくなんかない。うれしい」と言つてしまつた。「まるで小学生のやせ我慢」と笑はれた。
確かにさうかも知れない。かつての家族の安否の心配すら許されぬ身である。そして、心配しないでいいといふことは自分も心配されないといふことなのである。自らの行ひが招いた現在を受け入れるしかない。
ただ、寂しい人生なのは本当だとしても、係累を離れ執着から逃れるために出家することを勧めたお釈迦様の教へを、今は正しいと思へるのだ。大きな苦しみから逃れるためには、小さな苦しみを堪へ忍ばねばならない。
無常迅速、いつ何が起るかわからないからこそ、一刻も無駄にせず仏道に専念すべきなのだが、それも出来ぬ自分が歯痒い。地より何より自分の心の揺れの方が大きいのかも知れぬ。