自粛と大祓

世の中「自粛」をめぐる賛否両論で喧(かまびす)しいが、わたしは基本的に、自粛を「触穢」や「物忌み」の現代版だと考へてゐるので、死や禍(わざわひ)を穢れと思ふ人たちは必然的に自粛をするのだらうと思ふ。要するに、穢れが自分に伝染するのを恐れて外出を避ける心理が根底に働いてゐる。「こんな時期だから」と言ふのは、あくまで自他を欺く言ひ訳に過ぎない。
大祓では暴風などの天災も天つ罪として清めなければならない「罪」とされる。「畔放ち・溝埋み・樋放ち」といつた水田破壊も其の中に含まれるから、津波の被害とは正に「天つ罪」であり、何処かの国の首都の首長が言つた「天罰」とは少し意味が違ふやうだ。
日本人は古来罪は形代に移し、さらに水に流し海に流し去ることで清め祓つて来た。

大海の原に押し放つ事のごとく、(中略) 遺る罪はあらじと祓へたまひ清めたまふ事を、(中略) さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織つひめといふ神、大海の原に持ち出でなむ。かく持ち出で往なば、荒盬の盬の八百會に坐す速開つひめといふ神、持ちかか呑みてむ。かくかか呑みては気吹戸に坐す気吹戸主といふ神、根の国・底の国に気吹き放ちてむ。かく気吹き放ちては、根の国・底の国に坐す速さすらひめといふ神、持ちさすらひ失ひてむ。かく失ひては、天皇が朝廷に仕へまつる官官の人等を始めて、天の下四方には、今日より始めて罪といふ罪はあらじと、(中略) 祓へたまひ清めたまふ事を、諸聞しめせ
                      『祝詞 六月の晦の大祓』

罪を川から海へ、海の底へと「持ちさすらひ」「失ふ」リレーである。穢れが無害なほど薄まるまで身を謹んで待つ、すなわち謹慎であり、物忌み、自粛であらう。
ところが、今回の原発事故は、其の海の水を大量に原子炉冷却に使つたために、海の水自体を放射能といふ「穢れ」で満たしてしまひ、海に流すことも叶はなくなつたのである。もはや大祓で「罪といふ罪はあらじ」と宣ることは出来なくなつてしまつたのである。
自粛をするなら無限に長い間自粛するより他はない。