フラツシユバツク

最近のわたしの心身の不調は、やはり地震津波の影響によるものなのかも知れない。
香山リカが震災後に人々が陥りやすい精神状況について書いたものを読んでゐたら、どうも自分に当て嵌まりさうな徴候の記述を見つけたのである。例へば、地震津波の衝撃的な映像は「間接的トラウマ」とか「二次トラウマ」と呼ばれるものを引き起こすらしいが、さうした映像がトリガーとなつて自分の過去のトラウマがフラツシユバツクすることも多いと言ふのである。映像がもたらす衝撃が、他人事でなく自分自身の「生命の危機」と同等に感じられ、実際に生命の危機に瀕した状況がトラウマとして残つてゐる者は、すぐさまそのふたつが結びついてしまふものらしい。
わたしの場合も、二年前のまさに生命の危機と呼ぶべき、生き続けることの極めて困難な時期のことを毎日思ひ出して、あの時とほぼ同じ状況に陥つてゐるし、あの時と同様、さらに遡って九年前の悪夢の如き日々のことを頻りにフラツシユバツクのやうに思ひ出すといふことが続いてゐる。2002年と2009年、共に人生の中で出会つた最悪の日々である。
九年前の苦難や心労は思ひ返すのも辛いが、それを乗り切つてやつと平穏な日々を過ごせるやうになつてゐたにも関はらず、わたしは自分の愚かさと過ちによつてみすみす其の生活を崩壊させ、その結果として二年前の生命をやつと維持できるくらゐの衰弱した日々へと導いてしまつたのである。さうしたトラウマとしか言ひやうのない悔恨に満ちた無残な経験を経てゐるため、二年前の状況に戻るといふことは、九年前の地獄の日々の記憶に常に身を寄り添ふやうに生きることを意味する。此れでは不調にならない方がをかしいのである。
それでも、三月十一日までは、少しずつ、自分の気持ちを騙し騙し穏やかな生活を送るために積み上げて来た努力によつて、少しは前向きに日々を過ごせるやうになつてゐたのである。それが、震災と其の後にもたらされた多くの不幸を其の中に含む映像によつて一気に吹き飛ばされてしまつた恰好である。それも、最初は被災者への同情や共感であつたものが、いつの間にか剥き出しになつた自分自身の過去の苦しみを直視せざるを得ないやうな状況に変つてゐたのである。悲惨な境遇に置かれた被災者の人々の映像を見るうちに、其の中に自分の姿を見出してしまつたやうなものである。
わたしはもはやかうした日々感ずる辛さや思ひを語れるやうな存在を持たない。それでも何とかやつて行けると思ひかけてゐた矢先に津波の映像が心を掻き乱し、さらには引き続いた停電の夜に、さうした孤独に骨の痺れるやうな寂しさと悲しみを、嫌といふ程味会はされたのである。甘いと怒られるのを承知で言へば、其の意味でわたしも被災者のひとりと言ふことはできるのかも知れない。避難所に行く事も出来ず、孤立して救援や支援を受けられずに居る被災者のことを頻りに思ふのもそのせゐであらう。