祈りに関する補足

此のブログに反響といふ様なものはないし、社会的な影響など殆どないものと思ふけれど、一昨日からの発言について誤解のないやうに少し補足をしてをく。
まず、石原発言の詳細を聞いた訳ではなく、如何なる意味で語られた事なのかも定かではないが、少なくともわたしに石原を擁護する意図は全くない。賢明な読者諸氏は此の点について読み誤ることはないであらうが、わたしの考へてゐたことは次のやうなことである。
今回の大災害がもたらした数々の不幸と悲惨な現状を見る時、我々は神仏の加護や慈悲の力によつてもどうにもならない苦しみが此の世に起り得ることを認めざるを得ない。しかしながら、其の事によつて神仏を否定しやうとする方向に考へが向ふよりは、多くの日本人は−被災者の諦観と抑制に満ちた表情と復興に向けた雄雄しい覚悟を見る限り−、むしろ神や自然や天道といつたものへの畏怖畏敬の念を改めて思ひ起し、あるべき人の道の本源に立ち戻らうとする気持ちに向ふのではないか。さうする事によつて我が身に起つた出来事に対して気持ちの整理がもたらされ、多少なりとも前向きになれるのではないかと思ふ。思ひ返せば誰しもが日々神仏を敬ふ敬虔な慎ましい生活を送つて来たわけもなく、其の事を悔い、また反省する事によつて、起つてしまつた悲劇を自らに納得させやすくなるはずだ。そして、例へば此の災害による肉親の死を、理由のない不条理な喪失として嘆き悲しみ運命を呪ふよりも、さうした思ひの中で受け入れることの方が、長い目で見れば救ひともなり、此の先の人生を生き抜く強い決意へと導いてくれるのではないだらうか。具体的な神や仏の名は要らない。ただ、人の力を越えた神仏を怖れ敬ふといふ、極めて漠然とした集合的無意識にも似た神仏感、宗教観、或いは運命観・世界観であり、近世以降の日本人は、かうした心の持ち方によつて幾多の悲運や困難や惨状を乗り越えて来たのではないかとわたしには思へるのである。
このやうな事を、全く唐突にわたしに思ひ起させてくれたのが先日の天皇だつたのであり、言葉の内容よりも此の時機に自らカメラの前で語りかける事自体が大きな衝撃だつた。其の姿が、目の前に起りつある事態をうまく消化できずに茫然としてゐるわたしたちに、日本人の根底に流れる無意識的な世界観を揺さぶり起してくれたのである。わたしは、縋り付く一本の柱を見つけだしたやうな感覚を持つに至つた。そしてまた其処から飛躍して、皇室や朝廷が国家的な難事に遭遇する毎に神社や寺院に祈願を命じてゐたことを思ひ出して、さうした事が今この国難に際してなされてゐるのかといふことに思ひ至つたのである。
もちろん、異論もあるだらうし、この感覚をわたしと共有する人は少数に限られるのかも知れない。少なくとも、ネツトを通じて様々な人たちの今回の事件に関する発言を読む限りでは、かうした思ひを元に、何故全国津々浦々の神社や、密教或いは鎮護国家の仏教諸宗の寺院が原発事故の調伏のための祈願祈祷を捧げないのかといふ疑問を呈したものは見かけてゐない。
ところで、此の飄眇亭日乗は其の性格上、社会一般に向けたメツセージや提言、批評などとは異質のものであるため、もつと社会性や公共性があり幅広い読者を持つブログで繰り広げられるやうな被災者への見舞ひの言葉や応援メツセージなどは当然のことながら書いて来なかつた。あくまでも、日記としてわたしが日々思ふことや行動の備忘録として書いてゐるに過ぎないからである。一方でわたしも様々なブログやネツト上の発言を読み、その中には震災の状況や情報の在り方、今我々がなすべきことや考へるべきことなどに触れた文章などで感心させられたり共感するものも少なくないが、それについても此処では特に触れずに来た。そしてまた、基本的にわたしは実際に被災した方々を読者として想定してゐない。だから、わたしの祈りへの言及、特に神社は天皇の意を汲んで祈願をすべきといふやうな発言だけを見れば、立場によつては随分と状況を弁へない勝手な戯言と取られることもあらうかと思ふ。まあ、ブログといふのは不快を感じたら二度と読まなくなるだけであらうから、言訳めいたことをする必要もないのだが、一応わたしの姿勢といふか、如何なる経緯と考へ方のもとに先日来の発言になつたかを明らかにしてをかうと思ひ贅言を費やした。