電気の伝記

蛍光灯が嫌ひである。
明りの質が苦手なのと、たいていは明るすぎること、そして目がちらつく点が嫌なのだが、特に切れかかつてチカチカし始める様は、まるで断末魔の叫びのやうで、見るに耐へない。
会社では蛍光灯ではあるものの、上向きの間接照明に出来るのでまだ助かつてゐるが、其れでも切れかかると途端に狼狽せざるを得ない。白熱灯ならあつけなく息を引きとつてくれる。
停電のせゐで毎朝わたしが使ふ大船駅の中が暗くなつて、ヨーロツパのやうだと思つた。多くの場合天井が高く自然光を採り入れる構造になつてゐることもあるが、もともと電灯の数が少ないのであらう。ヨーロツパに限らず、ニユーヨークのグランドセントラル駅や地下鉄の駅でも、日本よりは遥かに暗い印象がある。薄暗くなつた構内のベンチに座つて改めて見回してみると、天井の一部がガラスの明り取りになつてゐることに初めて気づいた。通勤を急ぐ人たちの背後には陰影があつて、見慣れた光景に少しだけ尊厳のやうなものを感じたのはわたしだけではなからう。
同じ感想を持つた人もゐるやうで、明りの量を落とした日本の空港で欧州の空港に居るやうな気分になつたと書いてゐた。いずれにせよ今までが明るすぎたのである。
東京電力原発事故により当分は電力事情が悪くなりさうで、変な名前の大臣が、節電とともにLED照明への切替へ促進をしやうとしてゐるやうだが、経済効率だけで何かひとつのものにシフトさせやうとするのは如何なものであらうか。いいことばかりのモノなどあるはずもないからである。LED照明の利点は確かにあると思ふが、光源がピンポイント過ぎて、広い空間を照らすのに適してゐるかどうか。蛍光灯でも白熱灯でも、それぞれの良さも欠点もあるのであるから、利点を認識した上で使ふ人の好みで選べばいいだけの話であらう。少なくとも、明りに対する自分の好みがはつきりしてゐる人は、右に習へでお上の言ふことを聞いてしまふ人たちより適正な光量を弁へてゐるだらうから、結果として節電になるのは「明らか」である。
今の民主党政権といふのは、問題を解決しやうとする意欲こそ感じさせるものの、ことの本質を見抜けず、かつ其のやり方がまるで民主的でないといふ漫画のやうな状況である。
多様な明りによつて、生活に明るさと心地よい陰影をもたらすこと。考へて見ると、それは「電気」といふ発明がもたらした、人類への何よりの贈り物ではなかつただらうか。電気の歴史は明りから始まつたはずであり、冷蔵庫もクーラーも、電子機器や電気自動車も、其処から派生して出てきたものたちに過ぎないのだ。
東京電力の「電力」といふ言葉に慣れてしまつた時、わたしたちは傲慢なまでに電気を単なる「手段」としてしか意識しなくなつたのではないか。電力と並べて「電気」といふ言葉を置いてみると、何となく白熱灯のやうな暖かみを感じる。わたしたちは、夜を照らす明りをもたらしてくれた電気といふものの本源に、今だからこそ思ひをいたすべきではないだらうか。