転倒

八月二十四日(金)晴
家の各部屋には天井に丸い火災報知器が附けられてゐる。築五年に近くなつたせゐか、最近になつてそれらが電池切れを知らせる警告音を発するやうになつた。もともと匂ひはてんで駄目だが音には敏感な方であり、特に大嫌ひな電子音には過敏な程である。しかも此の報知器の音は耳を劈く鋭く不快な音で、警告音が出る度に余は苛立ちながら直ぐに飛んで行つて報知器を外して電池を抜いてしまふ。四角い普段見ない形状の電池であるから買置きもなく、従つて補充もしない。今朝六時前であつた。こともあらうにまだ寝てゐる最中に寝室の報知器があの嫌な音を発した。余は直ちに目を覚まし、こんな半端な時間に起こされた腹立たしさに、一刻も早く電池を取り外さうと立ち上がるが、予想してゐた方向に報知器はなく、何処だらうと向きを変へやうとしてバランスを崩し、寝台横のチエストの上に倒れ込んでしまつた。暗い部屋の不安定なベツドの上でもあり、目覚めたばかりで寝惚けてもゐたのだらう。幸ひ怪我はなかつたが、チエストの上に在つた加湿器が落ちて壊れてしまつた。歳をとると、かういふ生活の中の何でもない場面で大怪我をしてしまふ事もあるのだらう。不快な音に心ならずも早朝に起こされた挙句、己の衰へを思ひ知らされるといふ、実に腹立たしい朝であつた。

会社で広報から連絡があり、博報堂が出してゐる『広告』といふ雑誌の編集長から原稿依頼があつたといふ。勿論、会社を通してしまつたので断るより他はない。研究所の方針とかで、書き手や取材相手を特定した依頼は断らねばならないのである。会社の名を出さなければ個人の名でやつてもいいとは言はれてゐるが、その場合でも検閲はされることになるし、死ぬほど嫌味も言はれるので受ける気になれない。余が本を出したのが余程気に入らないらしく、余を指名してくる依頼にはかうした外部発表を統括してゐる研究の当該部署から嫌がらせに等しいチエツクが入るのである。会社を通さず余に直接依頼されたものであれば、会社が関知する事でもないし、余は会社名を絶對出さないやうにしてゐるので問題はないのである。宮地さん、次の機会には直接連絡するやう、その辺ちやんと言つてをいて下さい。

本日高橋英夫著『偉大なる暗闇』讀了。次は狩野亨吉に行くべきか。いや、その前に此の本の中で三谷隆正が歳をとつてから讀んだ方が良いと薦めたといふ、ゲーテの『ヴイルヘルム・マイスターの修業時代』を讀むことにしやう。