尺八開眼

十月二十二日(土)陰時々雨
昨夜突如尺八に開眼した。呼吸法を体得したと言つた方がいいのかも知れないが、とにかく今まで息継ぎに気を取られ、音も絶え絶えになつてしまふところが、クリアーに大きな音で吹けるやうになったのである。
夢かも知れぬと今朝も吹いてみるとやはり出来る。まだ完璧とまでは行かないが、一昨日までとは別次元である。かうなると面白くて午前中に二時間程吹く。今まで譜面にある息継ぎ場所まで吹くと苦しくなつたり、音が小さくなつたりしてゐたものだが、今では譜面通りに吹いて余裕がある。息継ぎしてもいいが続けることが望ましいところも、今までだつたらとても無理だったのに、難なく続けられる。さうすると曲につながりが出て曲想もよくわかるやうになるやうだ。
何をしたかと言ふと、要するに息を吹きながら同時に鼻から息を吸ひ込むことが出来るやうになつたのである。コミ吹きやユリ吹きはこの為にあつたのではないかと思ふ程、息の流れがスムーズになる。コミは最後まで強く吹き抜けられるし、逆に息に余裕があるから小さな音に絞つてゆくことも可能になる。さうだつたのかと喜ぶこと頻りである。
中村明一の「密息」がこれかも知れぬと思ひ、買つたままにしてあつた『「密息」で身体が変わる』といふ本を開いて見てみたが、どうも違ふやうだ。いや、恐らくわたしのやつてゐるのは基本は密息の一種なのだらうが、其の上に本に書かれてゐない息の吸ひ方を加へてゐる感じである。大発見と自惚れるつもりはないが、とにかく此の儘練習を続けて少しでも上手く吹けるやうになりたいとは思ふ。
ちなみにこの中村明一といふ人、松岡さんもご存じで未詳倶楽部にも来たさうであるが、音楽家として、また呼吸と身体の関係を解き明かす実践家及び理論家としては評価するが、虚無僧尺八の継承者の如くに僭称してゐる点で信頼の置けない人物である。尺八を楽器として、どのやうに吹かうが何を吹かうが勝手だし、実際中村の音はCDを聴く限り迫力もあり奇麗だとは思ふ。しかし、古典本曲を全くの無手勝流に吹いてをいて、自分が虚無僧尺八の存続を担ふかのやうに振舞ふとしたら、詐欺師とまでは言はぬまでも、世間を惑はす輩であらう。
ところでわたしの辿り着いた呼吸法は、想像だが、やはり昔の人たちが無意識にやつてゐたやり方ではないかと思ふ。このやり方で吹くとまさに譜面通りの息継ぎができるからだ。もちろん、吹きながら吸ふと言つても、口からの息継ぎをしないで吹き続ける循環呼吸ではない。吹いてゐる時に腹式呼吸で押し上げる肺からの息だけでなく、鼻から口に出て行く空気の流れが加はるやうな感じで、その為に肺からの息を使ひ切らずに済むから息が続くやうになる。コミのやうに、息を短く切つて重ねる奏法の場合は特にやりやすい。息を切るリズムがポンプのような役割をして鼻から息を吸い取つて口から押し出してくれるのである。逆に虚吹や楔吹だと今のところ上手く出来ない。といふことは、そもそもコミ吹きは息を長く続かせるために編み出された奏法ではないかといふ気もしてくるのである。

もつとも、これはわたしの発見でも何でもなく、神先生や如道会の諸先輩はとつくに体得してゐるものなのかも知れないが、少なくとも自分に出来なかつた事が出来るやうになるのは嬉しいものである。一層の精進を心掛けたい。