赤子とバツハ

五月三日(木)雨
午前中執筆。昼過ぎN子の友人A氏夫妻が生後二か月余りの赤ん坊を連れて来訪。昼食を倶にす。赤子は男の子にて、眠ったりミルクを飲んだり目を見開いてゐたりと何をしてゐても可愛く見飽きず。A氏夫妻よりは結婚祝ひとして南部鉄瓶を頂戴す。民芸調でない優品にて大変気に入る。有難し。五時半頃A氏夫妻去り、其の後久しぶりにバツハのヨハネ受難曲、カール・リヒテルによる1963年録音のCDを聴く。此のところ尺八や三絃、能楽の囃子や地謡文楽などに慣れ親しんでゐたこともあり、久しぶりに聴いたバツハに圧倒される。音楽としての完成度、精神性や敬虔さに於いて此れ程深い地点に至り得たことに、単純に人類の一員として感動する。初めて聞くといふN子も心を揺り動かされたやうだ。
もともとバツハは好きで、若い頃はヨハネやマタイの受難曲を聴いてキリスト教を信じたくなる気にもなつたものだ。少なくともバツハの楽曲がなければ、余はもつと早くにキリスト教や西洋芸術に見切りをつけてゐただらうと思ふ。比較する必要はないのだが、バツハの受難曲やオラトリオは余にとりては能楽のやうなもので、其れに対しイタリアのオペラは歌舞伎のやうなものだ。オペラも歌舞伎も余は一切関心を持たない。ワーグナーのオペラは其の中間で、文楽のやうなものかも知れない。ただ、普通に考へれば能よりもバツハの方が遥かに崇高で完成度は高いと思ふ。其れはドイツ語がわからず、イエスの受難に特別な感情を持たない余のやうな人間がCDを聴くだけで、此れ程の感動といふか、此の世ならぬ荘厳な美に打たれることからも推測できやう。どう考へても日本語が分からぬドイツ人が融や弱法師を見て此れ程心を動かされるとは考へにくい。
もちろん其れで能や文楽の価値が低いと言ひたいわけではない。日本人である余は、其の背景や内容は理解できるし、旋律や楽音に慣れ親しんでゐる以上それらの素晴らしさを堪能できる訳だから、別に劣つてゐると考へる必要など全くない。抑々比較することに意味がないのは十分承知してゐるのに、それでもなほバツハの凄さを何とか表現したくてかういふことを言ひ出したまでのことである。日本の文化を崇敬する余り、理由もなく西洋音楽を毛嫌ひし始めてゐた自分への自戒の意味を込めて、やはり素晴らしいものは素晴らしいのだから、折に応じてさうした作品に触れて心動かされることの大切さを痛感した次第である。