苦澁の年月

十二月十九日(金)晴
今日會社で呆然とせざるを得ぬ事があつた。嘗ての部下Y田に呼び出され、余が當時に語つたといふ三つの事に就き糾彈されたのである。余が人間を信ずる事の出來なくなつた主たる要因たる彼女から、まさか其のやうな事を言はれるとは思ひもよらなかつた。余には記憶から消してしまひたい過去が、時期として二つある。二〇〇二年の二月から二〇〇三年の十二月、そして二〇〇七年の九月から二〇〇九年の三月の二囘で、實際其の間の事は悪夢の如き斷片の殘像があるだけで、繋がりとしての記憶は失はれてゐる。ましてやY田は元からゐない者、知り合ふ事もなかつた未知の人として意識の中から追い遣る事に努めて來た人物なのである。元より今の自分に到つた事を他人のせゐにする積りはないし、全ては自分の愚かさ故であり、何れにせよ己が選び取つて來た事の結果に過ぎない事は重々承知してゐる積りである。其れでも余はY田とは、過去も今後も一切關はりを持ちたくはないと思つゐたので極力近づかず、存在しない者として接して來た。恐らく其れが氣に入らなかつたのであらう。余の嘗ての發言を言質の如くにして余を彈劾せんがばかりのもの言ひであつた。確かに、自分の言つた事に對する責任のなさ、とはつまり言つた本人が三つの中の一を除いて全く覺へがない事は批難に価しやう。余が多くの人から指摘される無責任さである。恐らく、余は發言といふものを心意を傳へるといふよりは其の時に相應しい表現行為だと考へがちな性向があるために、一度繪を描き終へてしまへば其を顧みることもなく次の畫題に向かふ畫家のやうに、自分の發言を忘れてしまふのであらう。言ひ訳にしかならないが、不誠實と思はれても仕方のない性分ではある。いづれにせよ、彼女に對し鄭重にお詫びするより他はなく、其の事はまた、忘れやうとしてゐた時代をまざまざと思ひ出させる拷問の如き苦しみを余に与へる事になるといふ意識はY田にはないのであらう。呆然とする所以である。
さらに、晝食時に余の信頼を置く後輩のS氏と雜談中に、會社上層部の余に對する冷遇に話が及び、余が何か惡いことでもしたのであらうかと戯れに問ふた処、其れでは聞きますが、先輩は何か善い事を會社にした事があるのですかと問ひ返され言葉を失つた。S氏の言ふ通りであつたからである。冷遇とは傲慢も甚だしいもの言ひである。極めて公平に、いや寧ろ宥恕温情を以て遇せられてゐる事に感謝こそすれ、不平を言ふ立場にない事は余が身に染みて理解してゐなければならないはずの事であつた。
此のふたつの事件が余の心を暗くし、斷酒への決意を更に強固なものにしたのは言ふまでもない。暗澹たる氣分は寒さ厳しい此の季節に相應しい。余は、少なくとも會社の人間を信ずることは今後ないであらう。