冷たい雨

一月二十ニ日(木)雨
此の處仕事が忙しく、亦其れが樂しい。仕事と讀書と執筆のバランスも良く日々充實してゐる實感があつた。然るに會社での余の評価は底を打つた儘であるらしく、竟に同期入社の連中からも總スカンを喰らふに至つたやうである。即ち同期での飲み會に誘はれる事もなくなつたのである。昨日同期會なるものが開かれたのだといふ。誘はれても行かなかつただろらうとは思ふが、流石に聲も掛からぬとは思ひも寄らぬ事であつた。余を蛇蝎の如くに嫌ふ役員が増えたとは言へ、其れに同調して余を同期から排したとすれば余りのことである。幾ら群れない主義の余にしても是は衝撃であつた。會社には最早心許せる同期入社の友人もゐなくなつてしまつたのである。
まあ、常に嫌はれる事を恐れず場合に由つては爭ふ事も辞せずに月給取り生活を三十年續けて來た訳だから、其の結果がかういふ事になつたのも全て自分の選択・判斷の結果である。余の座右の銘、「自業自得」はこんな時役に立つ。衝撃は受けたが嘆きはしない。自分のして來たことの結果でかうなつた訳だから甘んじて現實を受け入れることにしよう。アデュー、メコパン。
最近明治大正の教育行政に携はつた人たちの生涯や主義主張といつたものを調べてゐて、何が良いか惡いかは別として、自説に忠實で妥協を知らぬ彼らのぶれない生き方に改めて感心した處である。余の場合ぶれまくつた人生ではあつたが、尠くとも迎合や阿諛追從だけはして來なかつた積りなので、其の點だけは今頃になつて變節せぬよう心しておきたいと思ふ。孤独を恐れず孤立も辞せず、嫌はれても飄々かつ淡々と我が道を歩んで行かうと思ふのである。