大空のサムライ

昨夜十一時三十二分、坂井三郎著『大空のサムライ』読了。伝説的なゼロ戦撃墜王の生ひ立ちから入隊、訓練そして戦場での戦ひまでを綴る自伝的な作品で、わたしは松岡正剛の「千夜千冊」で其の存在を知り、先日偶々新刊書店で見つけて読み出したら止まらずあつといふ間に読み終へてしまつた。かつての敵国であるアメリカやカナダ、フイリピン、フランスなどでも訳されベストセラーになつたことからも分かるやうに、単にゼロ戦好きが喜ぶといふやうなものではなくて、ひとりの偉大なるサムライの生き様が見事に読み取れる素晴らしい書物であつた。
貧乏の中何とか行かせてもらつた中学を喧嘩の明け暮れの果てに退学となり、飛行気乗りになる夢を追ひ掛けて海軍に入隊し、最初は砲兵ながらも勉強し努力を重ねて航空機の操縦練習生になる辺りまでは、我がごとのやうにはらはらして読む。其の後戦地に赴き、戦争初期にゼロ戦で活躍するところなどは胸躍る気持ちがするし、やがて戦局が悪化する中で出遭ふ危険と困難は想像を絶するものがある。読み終へてとにかく坂井三郎といふ人間を同胞として持つたことと、昔の日本人の中には凄い人がゐたのだといふ思ひで何やら誇らしい気分になる。戦争といふ場で其の能力と努力のすべてを使つたのは事実だとしても、あれだけのひたむきさと冷静さ、そして勇敢さを持つてゐれば、何事でも成し遂げられるのではないか。さう思へる程に、坂井の戦闘機乗りとしての執念と自信には凄まじいものがある。しかし、其の一方で戦争の悲惨さや理不尽さを冷静に見つめ、或いは戦友や敵兵の死に行く姿に動揺し嘆き悲しむ、或る意味普通の感覚も失つてゐないことに、わたしは感動を覚える。
ゼロ戦の戦闘能力をフルに活用して次々と敵機を撃墜する様が詳しく説明されてゐて、其れも多くの人に読まれた理由ではあらうが、やはり人間坂井三郎の真摯な生き方の魅力がなくては敵国の人々にたくさん読まれるなどといふことはないだらう。人は坂井の中にサムライの幻影を求め、そして確かに其れを見出すのである。
読み終へて、無性にゼロ戦が見たくなつた。調べてみるとそれほど残つてはゐない。蒸気機関車くらゐあちこちにあるものと思つてゐたが、敗戦直前には特攻隊含め動くものは全部使はれてしまつたであらうことを考へ合はせれば、それも頷けるのである。東京だと上野の国立科学博物館靖国神社遊就館にあるといふ。九段の方が行きやすいが、靖国か…。今度の週末にいずれかに行つてみやうと思ふ。もともとゼロ戦や戦闘機の類は好きで、プラモデルも一時はたくさん持つてゐた。中学生くらゐだつたであらうか。あたかも空中戦をしてゐるやうな形にゼロ戦グラマンを天井から糸で吊るして、下から見て喜んでゐた。
話は全く変るが、男の子といふのはだいたいさうした戦闘機や戦艦、戦車に憧れる時期があるもので、中にはナチスが格好良くてたまらないといふ子も出てくる。さういふ場合親が変に介入して、オトナの良識とやらで止めさせたりしない方がよい。ヒステリツクにナチスを批難などすると、却つて後に悪影響を残すのではないかと思ふ。殆どの少年の場合いずれ興味が変化して戦争に対する関心を失ふし、ずつとナチス好きでゐるやうな少年などまずないのだ。ただ、少年の頃のごく短期間、誰しも戦争といふもの、或いは軍隊の武器や装備や制服に焼け付くやうな憧れを抱くものなのであり、其の期間に存分に憧れを使ひ尽くしてしまへば、後はすつかり忘れて他のことに目が行くやうになり、偶々今回のわたしのやうに特別な本に出会つて、自分もゼロ戦が大好きだつたことを思ひ出すくらゐになるのである。