其一とパソコン

十一月十一日(金)雨
昨夜無線LANの設定と先日買つたPCのセツトアツプを終へる。古い方のPCを書斎に移し、すでに移設済のプリンターと併せ、飄眇亭での原稿打込み体制が確立した。これで毛筆は嶺庵、万年筆とPCは飄眇亭といふやうに、執筆の棲み分けが出来るやうになつた。リビングのものはメールのチエツクとネツトの閲覧くらゐしかしないのだが、やはり新しいので画面は奇麗で動作は速い。それにしてもワードは変換こそ少しづつよくなつてはゐるが、余計な機能が多くしかもそのアイコンが邪魔で肝心の白紙面が見にくくて相変はらずストレスが溜る。松岡先生はいまだに書院を使つてゐらつしやるとのことだが、確かに文章を打つなら明らかに昔のワープロの方がストレスは少ない。
リビングのPCデスクのあつた処に低い本棚を移して画集類を収める。多くの大判の画集は書斎の書棚の上のスペースに押込まれて普段手にすることも少なくなつてゐたものだが、今後は気軽に開いて見られさうである。リビングに運ぶ画集を選ぶ際同じ場所にパリ時代に買ひ集めたエロテイツクな写真集が幾つもあるのに気づいたが、今では見る気もしないものばかりである。女性の裸体を観ることに対する欲望が衰へることはないと思つてゐたが、流石に五十を過ぎるとどうでもよくなつてくるものらしい。性欲は衰へを見せないが、エロテイツクなものに食傷するのか、ヌード写真より琳派の花鳥図の方が遙かにわたしを楽しませてくれるのである。
其の琳派であるが、江戸琳派を代表する画家のひとり鈴木其一の複製画を額装にしたものふたつを現在注文中で、今月末には届く。京都の細見美術館所蔵の作品で、同美術館を訪れた際最も良いと思つたものの複製がミユージアムシヨツプに飾られてゐて、欲しいと思つてカタログを貰つて来たものである。安くはないものなのですぐ購入といふ事にはならなかつたが、結婚の記念に、またリビングの装飾の仕上げとして思ひ切つて二点頼んだのである。もつとも、ひとつは雪に梅といふ季節ものだから、今しばらくは楽しめるとして、来春以降さらに別のものが欲しくなる可能性はある。その前の、季の合ふ三月くらいまでの間になるべく客を呼んでお披露目したいものだと思つてゐる。春夏や秋の画までは買へないとしたら、その間は仕舞つてをくより他はない。
わたしは自分の金で買へる程度の書画で気に入るものなどある訳はないと思つてゐるので、「本物」には拘らない。実際神先生の一如庵にある宗達や大雅、蕪村の「本物」を見てしまふと、美術館や文化財級の茶室を除けば、大抵の床の間が貧相に見えてしまふくらゐなのである。だから嶺庵の掛軸にしても、半端なものを買ふつもりはなくて、複製の色紙で十分である。その代り国宝級のものをたくさん持つてゐる。雪舟等伯も、貫之や定家の書もある。それらに比べてしまふと骨董屋で見るものなどとても買ふ気にはならない。それに引きかへ陶磁器や文具、茶道具や香道具の場合は、実際に使ふものだから複製といふ訳にも行かないし、レプリカの方が普通に出回つてゐるものより高いことが多いので、骨董屋が役に立つ訳だ。好みを言へば切はないが、予算に見合つた気に入るものもあるからつひ買ひたくなるのであらう。書画に比して最高級のものを今までの人生の中で見て来た数がそれほど多くないことも、さうしたものを買はせる一因かも知れない。本当に良いものに触れる機会が少なかつた為に、安つぽいものでもよく見えてしまふといふことは確かにあるだらう。其の意味で絵画については昔から随分良いものを観て来たといふ自負はある。
小学生で上野の西洋美術館にゴヤを見に行き、高校に入ると同じく上野の東博雪舟等伯を見て感じ入り、長じてはパリ時代にカラバツジヲを訪ねてイタリア中を廻り、レンブラントの銅版画のほぼすべてをパリの国立図書館でじつくりと眺めて来た。プラド、ルーヴル、ウフツツイ、アカデミア、ウヰーン美術史、大英博物館、ナシオナルギヤラリー、メトロポリタン、バチカンから台北故宮博物館まで、名だたる美術館には大抵行つた。或はゴツホやピカソ、ミロといつた画家の名を冠した美術館にも行つたし、画家の住居・アトリエの類も随分訪ねてゐる。尊敬する芸術家が住んでゐた家を訪ねるのを「お宅」といふのかと思つてゐたくらゐ、自分はお宅訪問が大好きで、作家詩人画家彫刻家作曲家の生家や住居にはかなり多く行つてゐる。まさに芸術ヲタクのやうなものであらう。