小石川の家

十一月二十日(日)晴後陰一時雨
余は大島の茶の紬、N子もグレーの大島を着て十時半過ぎ家を出づ。大船から横須賀線で東京まで行き、地下鉄丸の内線にて茗荷谷に赴く。其処で待合はせ、徒歩にて小石川は播磨坂に近い住宅地に在るN家を訪問。八月に鎌倉山に会したのと同じメムバーで、場所を変へて同じ趣向でイタリア料理のシエフを呼んで料理を作つてもらひ皆で食べるといふ催しである。鉄筋コンクリート四階建ての一軒家で、大手ゼネコンを退いたN氏が六年ほど前に建てた二世代住宅だといふ。N氏夫妻が四階に居住、エレベーター付である。これ見よがしの豪邸ではないが、立派な建物、内装である。
十二時半過ぎから食事となり、下記のメニユーを食す。

  • 前菜 野菜のテリーヌ 牛肉のたたき 地鶏レバーのワイン煮クリームチーズ添へ
  • カルパツチヨ 佐島漁港 天然平目 こち
  • サラダ キドニービーンズと林檎の塩麹ドレツシング
  • アクアパツツア 佐島漁港のかさご
  • パスタ 佐島漁港の太刀魚のスパゲテイーニ
  • デザート アツプルチーズタルト 洋梨のワイン煮 柿のソルベ

何もかもが美味しかつたが、特にコチのカルバツチヨが格別であつた。また、N家の西洋皿、グラス、さらに古九谷や染付といつた食器類も素晴らしいものばかりで、客一同眼の保養をしたる心持なり。会話も弾み食し終はつたのは四時過ぎ也。ところが実はこの後が余とN子にとりてはメインともいふべき聞香であつた。
といふのも前回の鎌倉山の折に、N家には香木がごろごろ転がつてゐるが、価値も分からぬので一度聞いてみて欲しいと言はれ、香炉や灰、火道具の他電熱器まで持参しての訪問だつたのである。炭団を電熱器で暖めながら、N氏が持ち出して来た幾つかの箱を見るに、焼香用の抹香の小箱が多い中に、伽羅と書かれた桐箱がある。中にはビニール袋に無造作に入れられた香木の小片がかなり入つてゐる。これが本当に伽羅なら凄いですよといふと、幾らくらゐになるかと問はれたので、恐らくグラム当たりで金に匹敵するかも知れませんと答へてをく。其の外真南蛮と記された紙の貼られた香木十グラム程もあり、後は白檀を含む香木の小片である。其処でまず真南蛮を聞き、次に伽羅を聞くことにして道具の説明やら値段の話をするにN氏も満更ではない様子。やがて持参した香炉に真南蛮を載せて回す。殆どが聞香自体が始めてといふ人たちである。真南蛮はそれなりの香りがあつて悪くはない。しかし次に伽羅を回すと、確かに伽羅と思はれる気品のある香りが聞けて、伽羅に間違ひないといふことになる。何度か回して聞くも流石に伽羅は力があつて匂ひ立ちが変らないのである。N氏は伽羅と確定視されて喜び、余とN子に結婚祝ひだといつて伽羅の数辺と真南蛮の小片、其れにまとめて保存してあつて銘もなく木所もわからぬ雑多な香木少々を持たせてくれた。我々の喜んだのは言ふまでもない。
五時半過ぎ辞して帰路に就く。但し、最初に飲んだ得体の知れぬシヤンパーニユのせゐか二人とも頭痛甚だしく疲れきつて帰宅。N家はご夫妻とも余り酒を嗜まれる方ではなく、来客に際して秘蔵のシャンパーニュを出してくれ余が開けたのであるが、中味は多少傷みが出てゐたやうである。普段酒やシヤンパーニユを飲まない家に忘れられたままになつてゐたやうなシヤンパーニユを出された時は要注意であることは、今までも何度か経験して知つてゐたはずなのに、グラスに勧められて固辞する訳にも行かず、かうした際にどうしたらいいのかいつも悩むのである。しかしまあ、美味しい料理と伽羅の香りを堪能した一日であつた。