漢字の力

五月九日(水)陰
張莉著『五感で読む漢字』(文春新書)読了。漢字に対する興味深まる。松岡先生経由で白川静を読んだのと、書の歴史を知らうとすれば避けて通れない漢字の成立の事情や空海の字や言葉に対する思想に触れたこともあつて、甲骨文、金文、篆書から立ち上がつて來る呪術的であるとともにデザインとしても優れた象形の面白さは比類がない。いや、面白いといふより恐ろしい造形も少なくはないのだが、それでも個々の漢字の成り立ちを知つてゆくことは老後の愉しみとしても尽きぬ程の深さであらう。さうかうするうちやつぱり論語など読むやうになり、君子の道を説く頑固で謹厳な老爺になることは、…まあ余はないであらうが。
其れにしても空海が渡つた唐の時代、金文や篆書の書体は日常的に目に触れるやうな環境だつたのであらうか。空海の書論を読むと目にしてゐたやうに感ずるが、逆に其処には中国的な原型的無意識が顕はに見え過ぎて、サンスクリツトにも通じてゐたと思はれる空海が佛典を漢字で読むことに違和感を覚えなかつたのかといふ疑問もわく。佛典の教への深さ尊さは確かにあるが、一方で漢字に内在してゐる古代中国的な信仰や思念の残滓は相当に強固なものがあり、漢訳はどうもがいても中国的なものにならざるを得ないことを、空海ほどよく理解できる人はなかつたのではないかとも思ふのである。
漢字の原型の中に人の姿やもののかたちが見え始めてしまふと、なかなか漢字を疎かには使へなくなる。其の意味で簡略文字の方が記号としての中立性はあるかも知れないが、そもそも文字といふものがニユートラルな価値を含まぬ数学の記号のやうなものである筈もないのであるから、それも程度問題であらう。いや数学記号にしたところで√よりもΣの方が格好いいと思へるから、記号の零度なんてものは本来あり得ない話なのではないかとも思ふ。