文隆の書と「本の自叙伝」

六月朔日(金)晴後陰一時雨
昨夜『近衞家の太平洋戦争』(近衞忠大著NHK出版2004)読了。昭和十年代から戦後にかけての近衞家と米中ソを中心とした世界各国との関はりを概観するに資する処あり。ただ、NHK的な優等生主義によるのか、また忠大氏にとりて身内の話といふこともあつてか、突つ込みが足りずに不満の残る点も少なからず。夢顔の話は一切触れられてゐないし、木戸や東條への言及も、まだ彼らが生きてゐるかのやうな及び腰を感ずる。とは言へNHKならではの、音声・映像ライブラリー検索でもたらされた資料の提示や、文隆のアメリカ時代の書簡や関連文書の発見があつたりと、讀み物としては一氣に讀ませる。特に近衞家の人々の証言や思ひ出話は嫡男忠大氏ならでは得難いものであり、近衞家の雰囲氣を知る上でも貴重である。其の忠大氏が近衞文麿そつくりなのにも驚かされるが、青年らしい率直さで祖父文隆や曾祖父文麿の事跡に触れながら様々な思ひを為す姿は好感が持てる。考察に研究者のやうな鋭い切り込みがなくとも、そこは貴種である限り善しとしやう。近衞家の人々の、初めて見る写真も幾つか載せられ、藤原氏オタクとしては嬉しい限りである。
ところで、裏表紙の著者紹介のところに、忠大氏の写真が載せられてゐるのだが、背後に床の間と掛軸が見えてゐて、その字が実に素晴しい。京都陽明文庫にある虎山荘で撮られたものらしく、流石は近衞家だけあつて良いものを持つてゐると思つてゐたら、本文を読むと其れは文隆の書であるといふ。しかも二十歳の時の作。此れには驚いた。墨跡の雄渾なる事類を見ない。一切の外連味を排して力強く伸びやかであるのに、絶妙なバランスの筆致である。此の瞬間余は参つた。文隆といふ人の魅力とスケールの大きさを改めて感じて、完全な崇拝者になつたと言ひ換へてもいい。生きて日本に戻り、戦後の日本を導いて欲しかつたと心から思ふ。また、文隆の他の書も是非見てみたいものである。陽明文庫に伝手のある知人はないものであらうか。

千夜千冊1468夜を讀み、連塾最終回の様子を知るに及んで、羨望と後悔で胸騒ぎが止まない。行けばよかつたと思ふと同時に、あれだけの濃い中身を今の自分が果たしてどれ程咀嚼できたかといふ不安も感じる。連塾自体に馴染みがなかつたのと、其の日が此処数年何もしてやれずにゐた父の誕生日で、しかも喜寿といふ節目だつた為に此方を優先させたのだが、何か歴史的瞬間に立ち会ふのを逃したやうな感覚がある。考へ抜かれ豪華で絶妙な趣向が凝らされた、知的な興奮の洪水のやうな時間だつたことが、千夜千冊の僅かな記載からも想像できる。1468夜の記述だけでも今までの人生で触れたり擦違つた様々なことや思ひが呼び覚まされる感じで、これ程の思索や思想や思考、思念がすでに為されたといふのに、今自分は一体何をしてゐて、これから先何をしやうとしてゐるのだらうと、茫然自失の態である。松岡先生と比べたときの自分のキヤパシテの小ささにも因るのだらうが、自分が如何に人類の叡智や知性や情念のごく辺境の、それも極めて狭い範囲を右往左往してゐるだけかといふことに氣づかされて、何だかがつかりしてしまふ。ヴアレリーから始めたといふ「本の自叙伝」といふ試みを知るにつけ、自分が今どれほどヴアレリーから遠ざかつてしまつたかを痛感する。失敗と愚行の連続だつたとは言へ、此の二十七年間余は一体何をして來たのであらうか。