俳句の縁 

九月二十七日(木)陰
内藤鳴雪著『鳴雪自叙傳』讀了。とびきり面白い一書であつた。幕末の松山藩に生まれた漢學を好む侍がご一新を経て役人となり、更に旧松山藩の東京での寄宿舎の監督となる。其処で松山出身の正岡子規を知り其の影響を受けて俳句を始め、後子規派の重鎮、長老となつた人である。余は子規のものは随分讀んで來た積りであるが、子規に鳴雪への言及あるを全く記憶してゐない。鳴雪に行き着いたのは亦違ふ筋の縁に因る。まづ、如正先生に薦められて讀んだ加藤郁乎『俳人荷風』の中に巖谷小波の書が引かれてをり、其の本が面白さうなので古本屋から取り寄せて讀んだところ鳴雪の事が書かれてある。それも「煙たいをぢさん」といふ余りな章題で、小波が番町の教會で見かけた美しい娘と其の母親に付き添ふ嚴格さうな父親が、後になつて紹介された内藤鳴雪其の人であつたといふ話である。美人の母娘と如何にも儼めしい俳句も詠むといふ侍上りの老人が基督教會に通ふといふ圖が強烈な印象として殘つてゐたところ、偶々鳴雪に此の自叙傳があるのを知つて取り寄せ讀み始めてみると、是が痛快といふ程に面白い。幕末維新期の變化の中を生き抜く訳だからつまらぬ筈もないが、ほぼ同時代を生きた福澤諭吉の『福翁自傳』に見られるやうなルサンチマンや理屈つぽさがなく、直截で素朴な表現や飾り氣のない昔の侍氣質は遥かに好感がもてる。まあ、余の諭吉嫌ひは勝サン仕込みだから比ぶべくもなく、寧ろ山川菊枝の『武家の女性』に描かれる幕末の侍たちの日常や風貌が此の本と同じ地平にあるやうに思はれる。それにしても弘化四年生まれの漢學に秀でた老人が七十過ぎて書いた文章とは思へぬ程讀みやすいのに驚かされる。勿論口述筆記を元にしてゐるのだが、本人も「最近は口語體の文章が一般に流行するので、それはいつの間にか書き覚えて、今ではどうかかうか、自分の意思を現はし、また人と討論することも出來るやうになつた」と書いてゐるのも面白い。逆に言ふと漢文では思ふことを書き得なかつたらしい。遥か年下の子規を俳句では師と仰ぎ、最初こそ褒められたが中々自分の句を取り上げてくれないので「多少憤慨心も起つたので、兼て子規氏から聞いてゐた蕉門の猿蓑集が句柄が最もよいといふ事を思ひ出して、もつぱらこの集を熟讀」して句を作り子規に見せたら賞賛されて喜ぶところなど微笑ましい限りである。他にも引いて紹介したい話は山ほどあるが、切が無いので凾館にある遺愛といふ女學校の名を附けたのも此の鳴雪翁であつたことを初めて知つた事を記すに留めてをく。鳴雪に親しんだ後は矢張り子規に戻りたくなり、出て直ぐに買つた儘二十六年間書棚の隅に並んでゐた柴田宵曲著『評伝正岡子規岩波文庫1986年初版本を讀む事にした。俳句の縁が暫く續きさうである。
最後に鳴雪の佳句を幾つか揚げてをく。

片側に雪積む屋根や春の月
夏近き吊手拭のそよぎかな
盃の花押し分けて流れけり
波立てゝ持ち來る鉢や冷奴