墓参三絃

十月十一日(木)晴
晝まで仕事を為し午後半休を取り東海道線東横線地下鐡を乗り継ぎ本駒込に到る。驛より本郷通りを歩み曹洞宗名刹吉祥寺に赴く。境内宏大にして墓域も広し。八百屋お七が吉三郎に出会ひし寺として名高く、山門を過ぎて左手にお七吉三郎比翼塚なるものあり、寫眞に収む。
比翼塚
更に進み本堂を正面に見て左に曲がり墓石の林立する中を歩みて竟に目的の墓を探し當つ。K楠香の墓其れ也。楠香は余の勤める會社の創業者にてK家は旗本の家柄と聞く。余嘗て楠香の殘せしノート及び手記を基に彼が歐洲遊學の足跡を辿る稿を起し會社の時報に連載したる事あり。行く行くは楠香の評傳をものすることをも企てをりたるも、余の降格に伴ふ會社の非禮に憤懣遣る方なく遂に會社への愛着を失ひ併せて執筆を中絶したる事ありき。其の当時も一度は楠香の墓前に詣でん事を願へど果たせず、偶々此の日閑暇の時間を得たるを幸ひ宿願を果たすに至る。執筆及び其の中絶を報告し、遥かに彼が在歐時の大望を思へば、今正に彼が起こせし會社にて香りを創る事を生業とせる余の境遇も楠香の恩沢に他ならず。平素不平と不遇を託つばかりの余の忘恩に思ひ至り慙愧に堪へず。日頃の鬱屈の思ひを脱し仕事に再び前向きになりさうな氣分となる。因みに楠香の命日は奇しくも余の誕生日と同じ也。
楠香の墓
武揚の墓
其の後反對側の墓地に足を踏み入れ會社の同僚の祖先たる榎本武揚の墓にも参じ合掌。吉祥寺を後にし天祖神社に詣で、近くの長者屋敷跡の看板を見た後富士神社の横を通つて本郷通りに戻り東洋文庫に入る。新しい建物落成一周年の記念式典を敢行中にて余はミユージアムシヨツプを覗きロビーにて小憩したるのみにて辞し、JR駒込驛まで出で山手線に乗り池袋に到る。
驛前で輕食の後東京藝術劇場に赴き五時過ぎより「三弦‐海を越えて」といふコンサートを聴く。義太夫の太棹、地歌の中棹、長唄の細棹による日本の三絃の違ひを聞き比べた後蒙古シヤンズ、琉球三線、中國大三絃に津軽三味線といふ亞細亞の三味線を聴かせるといふ趣向。各々趣き音色の違ひもあり面白く聴いたが、このやうに比べてみて分かつたのは自分の好みが矢張り地歌義太夫にあるといふことである。三線津軽三味線もたまに聞くには面白いが、日常の中で聞きたいとは思はない。又、長唄は矢張り苦手で、歌舞伎嫌ひといふこともあるのか退屈で三味線の音色も好みから程遠い。義太夫節の表現力は文樂の素晴らしさと相俟つて余にとりては格別の魅力があり、地歌の三絃のしつとりとして力強い音色も捨て難い。蒙古中國の曲が単に物珍しいだけである事は言ふまでもない。良い惡いではなく余の趣味好みに適ふか否かであり、其れが比べることで明確になつた訳で、此のコンサートは余にとりて収穫多しと云ふべし。池袋より湘南新宿ラインにて座つて歸り、思ひの他早く家に着く。