巨人

二月六日(水)雨
積雪による交通の混乱を恐れ会社を休む。
『田中清玄自伝』読了。実に面白かった。田中の名さえ最近になって知ったばかりであるが、この自伝と題されたインタビューを読むと、ちょっと他に比較しようのない魅力を持った巨人であったことだけは分かる。一面だけを捉えて悪意をもってつけられた数々のレッテル、曰く「右翼の大物」「フィクサー」「石油の利権屋」「共産党書記長から天皇制擁護への転向者」等々が、要するにそう呼ぶ人間の器の小ささを物語るものでしかないことも。
会津藩家老の家系に生まれ、左翼活動に入って共産党の武闘派として鳴らすも検挙され十年以上投獄され、その間母親が息子を諌めるために自死、すなわち「諌死」する。仲間の転向も知って気持ちが揺らぎ、とことん考え直した挙句にスターリン共産主義への違和感と、心の底に眠っていた伝統的心性が目覚めて転向する。恩赦で釈放されると昭和の破格僧山本玄峰に弟子入りして禅の修行に励む。
戦後は天皇制護持の論文を朝日新聞に載せ、それを見た者の仲介があって天皇に会って直接退位せぬよう提言する。建設業で戦後の復興の一躍を担い、タイやインドネシアといったアジアの支援にも乗り出し、日本への石油輸入ルートを確保するため石油メジャーと対立したりする。一方で、自由主義経済推進、反共産主義の団体モンペルラン・ソサイエティの一員となって、ノーベル賞受賞の経済学者ハイエクやハプスブルグ家のオットー大公などと親交を深め、天皇の中国訪問の先鞭をつけたりもしている。
政治家でも財界人でも、学者でももちろんないのに、そんな連中の遥かに上を行く行動力と人脈である。右とか左というレッテルも意味をなさない。六十年安保では島成郎を見込んで全学連に資金援助をするし、閣僚の靖国参拝など大反対。環境問題に早くから取り組んだ結果、原発にはノーと言い、太陽光発電を推奨していた。反米反ソで中国を含んだアジアの連携を構想していた。初期の玄洋社にも似たアジア主義である。マルクス主義者の人格の卑しさを骨身に沁みて知り、山口組三代目田岡組長とは肝胆相照らす仲だが、児玉誉士夫を蛇蝎の如くに嫌い、安岡正篤も大嫌い。二人には会いたいと言われて来ても意味がないからと会いもしない。痛快である。その児玉誉士夫の放った刺客に狙撃されたこともある。軍国主義の再来を阻止すべく細心の注意を払い、金儲けしか頭にない無定見の経済人はどんどん叱り飛ばす。
岸信介は大悪人として糾弾し、そのお先棒河野一郎を軽蔑する一方、吉田茂佐藤栄作田中角栄には一定の評価をしている。清玄の手にかかると、金丸、竹下、小沢は悪人だし、右翼でも野村秋介赤尾敏など小ものとして相手にもしない。頭山満ですら、大した者ではないと見切る。その他清玄にダメ出しを喰らったのは、スターリン毛沢東から、三島由紀夫、近衞文麿、徳田球一松下幸之助瀬島龍三、それに共産党の宮本・不破あたり。逆に認めていたのは、田岡組長や山本玄峰以外だと、鈴木貫太郎トウ小平宇都宮徳馬大宅壮一に財界人だと大原総一郎、池田成彬、松永安佐ヱ門、土光敏夫あたり。
まあ、これだけ見ても一言では説明しようのない人物であることが分かろう。私にとっては、会津藩の出自、函館育ち、転向、参禅、反ソ反米といった点が特に興味深い。ある一面だけ見るといかがわしくも思えるだろうし、大言壮語にも聞こえることもあるが、一生を追いかけてみればそこに貫かれる精神に一本筋が通っていることが分かるし、何事もとことん突き詰めて行く姿勢や、信義を重んじて信じることを実行に移す行動力には感服するより他はない。要はイデオロギーではなく、現実に如何に即しているかが根本だというのである。
こんなに凄い日本人がいたということはもっと知られてよいだろう。戦後を動かした財政界の本当の姿を知る上でも貴重である。清玄をインチキだとか悪く言う奴は、清玄に尻尾を掴まれていたことを白状するようなものであろう。

追記 松岡先生の千夜千冊でのこの本の紹介 
http://1000ya.isis.ne.jp/1112.html

小津安二郎監督作品『麦秋』をこの日見る。二度目だが、やはり良い。三宅邦子の奥さんぶりも、原節子の適齢期を越しつつある娘役、杉村春子の小母さんぶりも、皆昭和の記憶の中にある懐かしさである。三宅と原が海岸の砂浜に佇むシーンは、白いブラウスの清潔感が眩しいほどだ。使われている和食器の趣味の良さや、着物や帯にも目が行くようになった。いずれも高そうな良いものばかりで、白黒なのにその優れた質感まで分かることに感動を覚える。小説と同じく、良い映画には歳を経て見直すとまた別の新しい発見があるものらしい。昨日は『晩春』も注文したので、この週末には見られる筈である。