三樹夫再び

二月十九日(火)雨時々雪
半休を取り雪まじりの中晝過ぎ會社を出て澁谷に向かふ。驛より歩いて圓山町シネマ・ヴエーラに往く。途上古書肆にて栗田勇著『女人讃歌−甲斐庄楠音の生涯』を伍百圓にて得る。拾ひものであつた。嘗て某廣報誌連載時に資料として人に借りて讀みたる事はあるものの、手許に置きたいと思つてゐたのである。二時半より再び成田三樹夫特集にて『縣警對組織暴力』及び『影狩り』を観る。映畫を観るとなると浴びる程観たくなるのが余の癖である。
「組織暴力」の方は菅原文太の刑事と松方弘樹のヤクザの怒鳴り合ひに迫力があり、緊迫感もあり大変面白かつた。脚本笠原和夫監督深作欣二のコンビも冴え、東映實録路線の傑作と呼ばれる資格十分にありと見た。三樹夫は松方に対抗する新興ヤクザだが、メガネを掛けてゐるので、あの冷たい凄みのある目つきが見られなかつたのは殘念。地方都市のヤクザと政治家、企業と警察の四つ巴の癒着と抗争だが、「仁義なき」より規模が小さい分人間関係や利害関係が分かりやすく、しかも出て來る俳優は殆ど「仁義なき」でお馴染みの連中だから、樂しいと言へば樂しく見られる娯樂作であらう。
「影」の方は、三樹夫の出番は遙かに多く殺陣も樂しめたものの、内容は二昔前のテレビの時代劇を観るが如しで、まあまあの出來と言ふところ。石原裕次郎の顔は、汚れのメイクとは言へ汚な過ぎではないか。ニヒルな三樹夫は格好良いのだが、やはりヤクザでドスの効いた口調をもつと聞きたかつた氣がする。三樹夫特集は三月朔日迄だが、もう一度足を運べるかどうか。
ところで此のシネマ・ヴエーラといふ映畫館、ユーロスペースと同じビルに在るのだが、昔ユーロスペースには何度か行つた覚えがあるのにあの辺にあつたものか、記憶が定かでない。建物が新しいから或は移轉したものかも知れぬ。いづれにせよ昔の名畫座のイメージからは程遠い、清潔な館内と座り心地も見やすさも申し分のない座席を備へた小奇麗な映畫館である。平日の午後といふ事もあり、客は殆ど年配の男性。ただ、今囘氣づいたのだが、便所が狭い。朝顔が三つしかなくスペースも小さい。入る度何となく違和感があつたのだが、さう言へば昔の名畫座は箱の割に厠が大きかつたことに思ひ至つた。昔は三本立てなどざらにあつたから大勢が短時間に用を足せる必要があつたし、實際に観客動員數が多かつた事もあるだらうが、名畫座のトイレの無用な大きさとあの強烈な臭気こそ、古い映畫を観る際の醍醐味であつたやうな氣もする。此処でも、昭和の遠くなつた事を實感せずにはをられぬのである。
六時前に終り、急ぎ蒲田に向かふ。先日亜米利加合衆国から歸任した同期のI氏の歓迎会に参加。参ずる者七名。余は勿論酒類を口にせず。さう言へば此の時期は余の衰月或は物忌の期間であつたから斷酒は當然の事なのであつた。九時過ぎ散会、直ちに歸路に就く。