古書高騰

六月五日(水)晴
心地よい天気が続いている。
先日、西山松之助『ある文人歴史家の軌跡』を読み終えた。これもまた千夜千冊で採り上げられた一冊である。茶杓へのこだわりが面白く、実竹を使うことを初めて知った。また、歴代の名物茶杓のスケッチとメモ、短い解説は大いに勉強になり、茶杓への興味が俄かに高まったのは確かである。それで先日は骨董市で煤竹の茶杓を買って毎日袱紗で拭いている。二十万回拭くと味が出て、百万遍拭くと相当なものになるらしい。とりあえず二十万回を目指して暇があれば袱紗で擦っている。
ところで、最新の千夜千冊で松岡先生が『ユーザー・イリュージョン』を取り上げている。これは『神々の沈黙』を読んだ際にその存在を知り、是非読みたいと思いながら古本でもそこそこ高いために躊躇っていたのだが、千夜千冊に出たとたん中では安い方のものが売れてしまったのであろう、アマゾンのほしい本のところに出てくる中古の値段が一気に高騰してしまった。これには参った。
さらに、右側の参考図書の欄には『<意識>とは何だろうか』を始め、私が読んだ本や読もうと思っている本が並んでいて、それらを全部読んだ上でモノを言っている松岡先生に比べると、私の興味や読書の幅の小ささ、要するに知識や編集力の無さを思い知らされてがっかりもする。そのうちの何冊かを読んではみたものの、自分にはとても松岡先生のように縦横無尽に思考したり、書物間の関係を参照したり読み解いたり出来ないことが痛いほどわかるからである。
とは言っても、比較すること自体が間違いなのだから、私は私なりに、身の程の問題意識で、他ならぬ「意識」についての読書と考察を続けて行くより他はない。『ユーザー・イリュージョン』はもう少し値段が下がるまでしばらく措くとして、ダマシオの『デカルトの誤り』を今日註文した。これはアマゾンの中古の値段が少し下がったためである。これを読んだ後に、同じダマシオの、千夜千冊された『無意識の脳・自己意識の脳』に進むつもりである。