明治の日本人

十月朔日(火)雨後晴
杉山茂丸『俗戰國策』讀了。書かれた事が嘘か眞か全く判斷のしやうもないが、策士茂丸大活劇の趣もあつて讀み物としては面白い。伊藤博文山県有朋も、桂太郎大隈重信も、茂丸の手に掛かると極めて人間くさい存在となり、子どもの意地の張り合ひじみた、人間関係の中の俗つぽいやりとりが、案外歴史を作つてしまふものかも知れぬと思はせる。とにかく、最近は明治の人間にばかり興味がある。政治家や右翼の親分のみならず、産業界や學問の世界で活躍した、或いは挫折した明治人の生き方や考へ方が余の興味を引いて止まぬのである。
特に化學工業の黎明期に活躍した、東京帝國大學理學部や工部大學校、京都帝大理工科を出た人々の人間模様、それに日本化學會の動向といつたものが、知らずに居たことだけに、明治期の産業と學問の関係を考へる上でとても興味深いのである。明治期、特に其の初期に化學は全くの実學として、すぐさま國家の為に何事か貢献為し得るものとして天下國家を論ずるエリートたちによつて學ばれた。理學的に自然万物の究極の眞理を追究しやうなどとは夢にも思つてゐなかつたのである。それを踏まへて初めて杉浦重剛が元は化學を學んでゐたことの意味が了解出來るのである。だからこそ、化學といふ訳語さへ氣に入らず舎密學へ戻せといふ論議まで行はれた。舎密といふ言葉には學舎の中で密やかな實験を為す事の意訳が篭められてをり、ケミストリーの單なる音訳ではなかつた。蘭學者がケミストリーを重んじたのは、其れが有用な製造に直結してゐることを見抜いてゐたからなのであらう。舎密はだから空疎な理論を構築するのではなく、何ものかを國家の為に作りだす製造化學を志向するものであつた。明治人にとって、自然の法則の究明や絶対の眞理の探求などは戯言か耶蘇の息のかかつた邪宗的なものに思へたのであらう。