野菜中心

七月十七日(木)陰
野菜中心の食事にして久しい。無農薬有機野菜をたくさん食べ、肉は滅多に食べず、魚もときどき摂る程度、米も極力減らし白米だけではなく玄米や雑穀も食べる。買ふ野菜の量は従つて大量となり、買ひ出しに多大な勞力を要するやうになる。いつしか野菜中心の食事といふより野菜中心の生活になる訳である。實際有機無農薬で揃へやうとすると普通のスーパーマーケツトでは見つからず、だからと言つて所謂自然食の店に置いてあるのは萎びて元氣のない野菜ばかりなので、きちんとした調達先を持たないと中々間に合はない。しかし、一度食べてしまふと成程その旨さは誰にでも分かるものであり、味の薄い一般の野菜では物足りなくなる。ましてや安いが残留農薬の量り知れぬ中國産の野菜など絶對に口にはしたくない。とは言へ、我が家が買つてゐる店は決して高い訳ではなく、ものによつては一般のスーパーより安いものもあるといふ。今はだから入手が比較的容易なために、其処に買ひ出しに行くくらゐの苦勞で済んでゐるが、これでもし高い上に中々手に入らないやうな事態となると、それなら自分で作つてしまへといふ流れになるのも自然に思はれる。そのやうにして農業に轉じてしまつた人も少なくないと聞く。
食は生きる上で最も大切な事柄である。單に健康の為といふに留まらず何を食べるかは其の人の生き方思想に關はるものなのである。それに氣付いてしまつたら、食材ひとつひとつの由緒來歴を仇疎かには出來ないし、ましてや出処の怪しい中國産の食品なんぞ絶對に手を出さないやうになるであらう。抑々余はグローバリズム大反對であるが、食に於けるナシヨナリズム、即ち食糧自給率の向上は自分と此の先の子孫を守る為の戰ひであり、集団的自衛権などより余程國家にとつて喫緊な問題なのである。其処を押へずに愛國を謳ふやうな輩は端から信用に値しない。食べ物とは自分の體を形作るものなのであり、外國産のものどもで自らの肉體を為して何処が右翼なのだ。余は右翼が大嫌ひだが、其れ以上に経済至上主義者や安倍晋三を始めとした長州の政治家が死ぬ程嫌ひである。いい加減に薩長の売國奴政治家の呪縛から目を覚まさない限り、此の國の未來は本當に危ふいと思ふのである。
我が家では此の夏より糠床を復活させ糠漬けも食するやうになつた。此れが實に旨い。昔は當り前のやうに食膳に並んでゐて、誰しもさして有難味も感じずに口にしてゐたことであらう。それがいつしか食卓から消え、偶に外で出されるものを食べてもまづ不味いのにしか出喰はさないので半ば味を忘れかけてゐたのだが、元氣な野菜をきちんと漬ければ、此れが實に美味いのである。こんなにも旨いものを當り前のやうに食べられてゐたことの幸せと、それを消し去つた時代の流れといふものに對する憎惡を同時に感じずにはゐない。真つ當な愛國心とは漬物の旨さから滲み出るものなのである。