普及版を望む

七月十八日
高橋箒庵の日記『萬象録』を讀んでゐる。慶応義塾で福翁の知己を得て時事新報の記者となり、欧米に遊んだ後三井に入り三越の近代化などに辣腕を振るつたものの、五十で事業から退いてからは茶の湯を中心とした趣味に遊ぶことを専らとした、明治大正から昭和にかけて最も名の知られた數寄者である。三井出身だからといふ訳ではなからうが、引退後に箒庵は三つの仕事を為し遂げた。一つは茶入れと茶碗の名器を網羅した大正名器鑑の完成であり、二つ目は東都茶會記の執筆、そして最後が此の萬象録と題された日記を綴ることである。最初の二つは著者生前から本となったが、日記の方は最初から刊行を前提に書かれていながら活字として全巻上梓されたのは平成の世になつてからのことであつた。造本は確かに立派だが思文閣から出された其の本は、一・二巻が八千百圓、其れ以降は九千百八拾圓なので、全八巻揃へると七万一千二百八拾圓になる。幾ら何でも高すぎる。勿論余は圖書館で借りて讀んでゐるのである。しかし、其の面白さは單に茶人、數寄者にだけ通ずるといふやうなものではなくて、箒庵の人脈と趣味興味の廣さを反映して大正期の政治・經濟・社會・文化・藝能・スポーツに跨る一級の史料としても活用出來る實に貴重な文献なのである。もつと廣く知られてよいものであるし、文語體による優れた日本語の讀み物としてより多くの人に親しんで貰ひたいと思ふ。其の為には是非一冊三千五千圓くらゐに抑えた廉価版を出して欲しいものであるし、出來れば岩波文庫ででも出れば確實に文化史的に大きな衝撃を与へる事件となることであらうと思ふ。今の処此の本は世間に余り知られてゐないにも關はらず、其の面白さは彼の斷腸亭日乘に劣らぬものであると、勿論面白みの意味合ひが異なるから単純な比較は不可能にしても、余はさう評価してゐる。奇特な出版社があると良いのだが。